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固有時の意味

何とかして全宇宙共通の時間概念が欲しい!

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僕はここにいる!

 相対論の結果から、もはや、同時というものが慣性系によって 変わってきてしまうということが分かると人は途端に不安を覚えるようだ。  それはなぜだろうか。

 同じ時を過ごせないという切なさからだろうか?  大宇宙に旅に出て光速近くまで加速し、 遠く離れたある場所で何か素晴らしい発見をしたとしよう。  しかし、「俺は今この瞬間、ここにいる!」という心の叫びが 誰かに届くのはいつになることだろう。  この自分にとっての「今」というのが 遠く離れた他の人にとってどれほどの意味を持つことだろう。


因果律

 別の人がこれとは独立して同じ発見をしたとしよう。  ここで言う「独立して」というのは、互いに光速で情報をやり取りしても 影響を与えられないほどの僅かな時間差しかないという意味である。  互いに 1 万光年離れていて二つの発見の時間差が 1 万年以下であったなら、 この二つの発見は全く独立して行われたと考えていい。  互いの発見に関する情報をこの時間以内では相手に伝えようがなかったのだから。  (超光速通信が発明されるまではこの議論は正しい。)

 このように二つの事件が独立している場合、 結局、どちらの発見が先だったのかということでは人によって見方が違う。  立場によって、同時の概念がずれているためだ。  そしてどちらが先であったとしても物理的に何の問題もない。

 ところがこの二つの事件が独立でなかったとしよう。  A の発見の結果、B の発見があったとする。  つまり二つの事件の間には光の速さで情報を伝えるための 十分長い時間差があったということだ。  この場合には、どんな人から見ても A が先で B が後である。  どんな立場に立とうともこの長い時間差を埋めることは出来ない。

 「因果律が守られている」というのはこういうことだ。  因果律というのは、原因があって結果があるという我々にとって当たり前に思えるルールのことである。  しかし、因果律がどれほど当然に成り立たなくてはならないのかについては 物理的に証明されているわけではない。  キリスト教でも仏教でも「因果応報」というやつは大切な考えなので 多くの人に支持されているというくらいのものである。


苦肉の策

 我々はなるべく、共通に使える時間が欲しいのだ。  何とかうまいことをして全宇宙で通用するような時間の基準を決めることが出来ないだろうか?  相対論ではどの慣性系も同等の立場にあると考えるのであって、 地球との相対速度を 0 にあわせた慣性系が特別な意味を持つわけではないのだ。  全宇宙で共通に流れる時間を定義できればこんな切なさや 気持ち悪さを感じることはないのだが、相対論がどこまでも正しいとしたら そのような共通の時間を考えることは無意味である。  もはや共通に流れる時間がないので、 時間の基準をどのように決めたらいいのかさっぱり分からない。

 そこで、仕方ない。  こんな方法ではどうだろう。  ローレンツ変換をしても変わらない量があったのに注目しよう。

 後で都合がいいように前に紹介した時とは符号を逆にしてある。  符号が逆でも不変量であることには変わりがない。  この量は、どのような慣性系に変換しても値が変わらない。  つまり、どの慣性系にも共通して使える量である。  これがなぜ、時間の代わりに使えるのだろうか?

 説明しやすいようにこの量の微小変化を考えて、その全体を と 表現することにする。  微小量でも不変量であることは変わりない。

 この という量は、 微小時間 の間に微小距離 だけ移動した場合の、 4 次元空間内での移動距離の 2 乗を表している。  この 4 次元空間内での長さは、どんな立場の人から見ても変わらないのである。  つまり、どれだけローレンツ変換しようと変化しない量である。

 ここで が 0 となるのはどういう場合かを考えてみる。  考えなくても、それは微小時間 の間に全く移動しなかったという場合だとすぐ分かる。  もし観測者が運動する物体と一緒に移動していたら、 あたかも物体が運動していないように見えるではないか。  つまり、 を運動する物体と同じ慣性系に変換してやれば を 0 に出来るというわけだ。  その時、

となる。  これは、 は運動する物体にとっての普通の「時間」を表しているということだ。  しかも はローレンツ変換しても値の変わらない便利な量である!

 自分の基準を相手に押し付けるのはやめて、 それぞれの速度の物体の持つ、それぞれの固有の時間で表現してやろうということになったわけである。  そのようなわけで、この量を「固有時」と呼ぶ。

 アインシュタインが「私は全宇宙に時計を置いた」と表現したのはこのことなのである。  もはや、宇宙にたった一つの大時計を置くことには意味がないので、 時間の管理をそれぞれの点に任せたというわけだ。


注意書き

 ここの説明で、なぜ微小量 による表現をわざわざ使ったのかという点について 悩む人がいるかもしれない。  この理由を明らかにしておかなければ親切とは言えないだろう。

 これは、議論を慣性系に限るための方法なのである。  特殊相対論は慣性系どうしの変換の理論であって、加速する場合を考えていない。  速度が変化されると困るのである。

 よって、速度が一定と見なせる微小時間 の間のわずかな移動距離に話を絞ったのである。  こうしておけば、この という量は加速する場合、すなわち 一般相対論でもそのまま応用することが出来るわけだ。

 分かりにくければ逆の表現をしよう。  もし私が微小量を使わずに「 は固有時です」と表現したとする。  つまり、微小時間に限らずに長い時間 の間の移動距離 を使ったとする。  その間にあらゆる物体が速度を変えないのならばこれでも問題はないかも知れない。  しかしこの考えをそのまま一般相対論で使われると困るのだ。  途中でどれだけの加速をしてもいいから、最終的にかかった時間、 移動した距離だけを問題にして計算するとなると、これは正しい表現ではない。

 図形的にいえば、加速をすると言うのは 4 次元空間内で曲がった線を描くということである。  この曲線の長さを出発点と到着点を結んだ直線の長さで表してもよいものだろうか。  本来は「道のり」の長さを測らなければならないのに、2 点間の距離を測っていることになってしまう。  その物体にとっての経過時間を計算したければ、 この微小な固有時を積分してやればよいだけであるので安心して欲しい。


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