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多世界解釈

この説明でいいのかな?

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私の学生の頃

 日本では古臭い「コペンハーゲン解釈」ばかりが 主流として扱われているようだが、 その他に「多世界解釈」というものもあるらしい。

 ネットの普及でようやく日本でも知れ渡るようになったが、 私の学生の頃には、

「おい、コペンハーゲン解釈が主流なのは日本だけらしいぞ」
「え、じゃあ他に何があるっての?」
「多世界解釈って言ったかな・・・」
「なんだそれ? どんなの?」
「俺もシラネ」
「ふーん、まいっかー」

で話が終わっていた。  今はネットでの解説や分かり易い教科書が増えていて、 本当にありがたい。

 そんな難しい話ではないので、短く説明しよう。  細かいことを説明し出すとキリがないのだが、 あまり長い説明になると難しいものだと思われてしまうからな。

 実は前回の記事の「作り話」の中にも、 多世界解釈っぽい考えがわずかに混ぜ込んであるのだった。


2つの解釈の違い

 波動関数の形は方程式に従って変化する。  時間が経つごとに変化する。

 その変化した波動関数というのは人間から見ると、 2 通り以上の相容れない状態が同時に重なった状態であったりする。  しかし自然は人間の都合などお構いなしである。  人間に分かってもらえなくとも、とにかくそのような状態で存在している。

 人間はこの状態をありのままには認識する事ができず、 どれか一つの状態でいてくれないと納得できない。  実際、人間がこれを観察すると、 やはりどれか一つの状態のみを認めることになる。  そこで人間は叫ぶ。

「観測の瞬間、状態はただ一つに定まった!!  なぜだ! 奇妙だ! 波束の収縮だ!」

 こういうことを叫ぶのがコペンハーゲン解釈である。

 ところが別の解釈も可能である。  人間を含めて、この世の全ては波動関数で表されている。  観測の瞬間、別に変わったことが起きるのではない。  ただ、A という状態を観測した人間と、 B という状態を観測した人間とが 重なり合って存在している状態を表す波動関数があるだけである。

 我々自身はその可能性の中の一つに過ぎないわけだ。  この解釈は心情的に納得できるかどうかだけが問題であり、 それ以外に矛盾などはなさそうだ。  これが多世界解釈である。


注意が必要

 ここまでの話を聞いて、 自分がすっきり理解できた事を大変喜んでいるということを 相手に伝えようとして、

「要するに、パラレルワールドを認めるというわけですね?!」

なんて具合に話をうまくまとめたくなるわけだが、 そんなことを言おうものなら、 多世界解釈を擁護する専門家の多くは「そうではない!」と怒り出す。

 せっかく分かった気がしていたのに、全否定されてしまった。

 私もかつては彼らがなぜそんなに怒るのかの真意が理解できなくて、 「・・・すると多世界解釈というのは本当はどんな意味なのだろう?  考えていたよりもっと複雑な話に違いない・・・」 などと悩み苦しみ抜いたものだが、彼らが怒る理由は実に些細なことだったのだ。  要するに SF やアニメに出てくるパラレルワールドというのは、 互いに行き来できたり、別世界の自分と会話できたりする。  過去に戻って重大な選択をやり直して、歴史を変えてしまったりする。

 擁護派は「そんなことは在り得〜ん!!」と怒っているのである。  いや、「そんな子供っぽいことでいちいち怒るなよ、 それくらいはちゃんと分かってるよ」と反発したくなるかも知れない。  私がそうだった。  しかし現実とアニメの違いをちゃんと分かっているのは、 意外にも少数派であることを認めた方がいいのかも知れない。

 パラレルワールドなんて陳腐化された表現をされたら、 またおかしな妄想を膨らませて あちこちでいい加減な理論を言いふらす連中が増えるだろう。  これは現状を見ていれば十分予想がつくことだ。  (ちょっと検索を掛けてみたが、いるわいるわ。)  結果として、真面目な研究者でさえ妄想狂であるかのような 誤解をされてしまうことになるはずだ。  彼らに言わせれば、 「頼むから軽はずみな例えを使うのはよしてくれ」というのである。

 現にこの解釈は長い間誤解され、今も誤解され、研究者らは傷付いてきた。  それだから、我々には些細に思えることでも彼らは憤怒する。  いやいや、彼らに言わせれば私もまだ誤解して説明しているかも知れない。  私は彼らを怒らせるのを本当に怖れているので、 この解釈について説明するのをこれまでずっと避けてきた。


世界は無限に増えるのか

 「多世界解釈」という名称にはかなりのインパクトがあっていいのだが、 この言葉自体が誤解の元になっているのも否めない。  誰かが観測行為をするたびに、あるいは未来を変えるような選択をするたびに、 際限なく世界が分裂し増えていくというような印象を与えてしまっている事が多いと思うのだ。

 しかしこの解釈を擁護する人が信じているのは、 こんな風に増えすぎた世界を収める場所がなくなって いずれ破綻してしまいそうなイメージなんかではない。  そうではなく、 世界のあらゆる状況を記述できる十分に大きな波動関数が初めからたった一つだけあって、 その形が変化していくのをただただ神の視点で見ているようなイメージである。  「単一世界解釈」とでも呼んだ方がむしろいいくらいだ。

 この解釈はすっきりしていて好きなのだが、私には受け入れられない。  人間の自由意志、選択の自由がどこにもない気がするからである。  もちろん、コペンハーゲン解釈も確率による解釈であって、 自由意志なんかどこにもなさそうなのだが、 少なくとも次のような想像をしなくて済む。

 つまり、私が極悪人となって存在しているような世界が 今も消えずにどこかにあるのではないだろうか。  それを考えるのはとても気味が悪い。  いや、「あらゆる可能性」が存在しているとは言っても、 私の人生の開始条件からは、 私が極悪人になってしまうような可能性は 初めから一切なかったかも知れない。  そうだとすれば、別の私が今もどこかで悪さをしているという 罪悪感から少しは解放される。

 要するに心情の問題だけだというわけだ。  信じるかどうかはどうでもいい。  ただこういう考えもあるのだと知っておくのは、 視野が広がってとてもいいと思うのだ。


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