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ディラックの海

「誰々の何々」って感じの表現、かっこいいよね。

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負エネルギー問題の解決

 たとえ負エネルギーの解を認めても、 確率密度が負になってしまうような問題が生じないで済むことが分かって一安心だ。  しかし負エネルギーを認めること自体にすでに大きな問題があるのである。

 すでに「クライン・ゴルドン方程式」の記事の中でも話したように、 負エネルギー準位が無限に存在するという事は、 粒子が無限に低い準位へと落ち続けて、無限に光を放出し続けることを意味する。

 しかしディラックはこの理論上の大きな困難をチャンスへと変えてしまった。  電子が無限の深みに落ち込まないでいられる理由・・・ それは全ての負のエネルギー準位をすでに無数の電子が埋め尽くしているからだ!!  パウリの排他律によれば、すでに他の電子が占有している状態には 他の電子は入って行けないのだった。

 ああ、何という口から出任せ!!  負の全てのエネルギー準位ということは、 無限の深さにまで無限の数の電子が詰まっているとでもいうのか。  まるで底の知れない海の深みのように!!  この無謀とも思えるアイデアを 「ディラックの海 ( Dirac sea ) 」と呼ぶ。  我々は真空には何もないと思っているが、 実は無限の数の電子がすでに「存在」していると考えるのである。

 これを聞いてパウリは激怒したという。  「とてもまともな科学理論だとは考えられない。」  まあ、当然だろう。  私も同意見だ。  もしそれが本当ならその無限の電子の無限の質量が時空をひどくねじ曲げるのではないか。  それに通常の電子と、その見えない無数の電子との相互作用も考えないといけないことになる。  また無数の電子の持つ無限大の負の電荷は何が打ち消しているのだろう。

 今では「場の理論」による解釈のしなおしによってその辺りの問題点は克服されているわけだが、 このディラックのアイデアには続きがあって面白いのでこのまま説明を続けよう。


反粒子

 負エネルギー状態の一番上の準位と、正エネルギー状態の一番下の準位の間には という桁違いのエネルギー差がある。  それは電子 2 個分の質量エネルギーに相当する。

 もしこの「海」の表面の電子の一つに高エネルギーの光が当たり、 上のエネルギー準位に「ぴょこっ」と飛び上がって来るようなことがあれば、 それはあたかも真空から電子が発生したように見えるだろう。  そして電子が元あったところには穴が空く。

 もう少しだけ深いマイナス準位を占めていた別の電子が光を受けて、 この穴に向かって飛び上がることがあれば、今度は深い方の準位に穴が空く。  穴はあたかも一つの粒子のように振る舞い、 エネルギーを変化させながら転々とするように見えることだろう。

 穴と正エネルギーの電子が再び出会えば、電子は穴に落っこちる。  高エネルギーの光を放って両者とも消滅したように見えるはずだ。  このような考えに基づく理論を「空孔理論」と呼ぶ。

 元々負電荷が占めていたところに穴が空くのだから、 我々はこれを正の電荷を持つ粒子が出現したかのように観測するに違いない。  ディラックはそういう「反粒子」と呼ばれる存在があるに違いない、と予言した。 ( 1928 年)

 ディラックはこの穴が「陽子」の正体だろうと考えていたようだ。  当時知られていた素粒子が陽子と電子と中性子くらいしかなかったので無理もない。  しかしその考えはすぐに他の学者によって否定された。  その穴は電子と同じ質量、電子と正反対の電荷を持った粒子として 観測されるはずだということが指摘されてしまった。

 ところが 1932 年、そのような「反粒子」が実際に発見されたのである。  宇宙から降り注ぐ放射線の中に、 正確に電子と同じ質量を持つ、電子と正反対の電荷の粒子があることが分かり、 「陽電子 (positron) 」と名付けられた。  ディラックはその翌年、ノーベル賞を受賞した。


粒子の生成、消滅

 陽電子は今では加速器を使って人工的に大量に作り出すことができる。  十分に高いエネルギーを得て粒子と反粒子がペアで生まれることを「対生成」と呼び、 粒子と反粒子が一緒になって光を放って消えることを「対消滅」と呼ぶ。  これらの現象が事実であることはすでに十分に確認されている。

 永遠に不滅だと考えられてきた物質が、 真空から新たに生み出されたり、 対消滅して光だけを残して消えてしまうことが分かり、 物理学は粒子の増減をも理論に取り入れた新しい領域に踏み込む必要が出て来た。

 それまで「真空」とは何も無い状態を指すのだと漠然と考えられてきたが、 そこには粒子を生み出したり消滅させたりする複雑な仕組みが隠されているらしい。  研究の対象が粒子の存在の舞台である時空そのものに 向けられるようになってきたのである。


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