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どんどん見つかる新粒子

困ったことに、見付かり過ぎるんだよね。

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歴史を早回し

 20 世紀の前半に解決してきた入り組んだ問題についてはおおよそ説明できた。  歴史を行ったり来たりして説明しているので、混乱気味になっているように思う。  復習を兼ねて歴史順に早回しで見てみよう。

 量子力学が建設されたのは 1923 - 1926 年のことだった。  この頃の素粒子と言えば、まだ電子と陽子くらいのものだった。

 1928 年、ディラックが反粒子の存在を予言した。

 1932 年、陽電子が発見される。
 1932 年、中性子が発見される。
 1932 年、重水素が発見される。

 つまり、重要な発見が同じ年に集中したことになる。  「奇跡の年」といえば 1905 年のアインシュタインの活躍が有名だが、それだけではない。  この年を第二の奇跡と呼んだりもするくらいだ。


中間子探しとミューオン

 1934 年、フェルミが場の量子論によるベータ崩壊の理論を発表。  ここでニュートリノが理論的に登場する。  しかしその存在が実証されるのはずっと後である。

 1935 年、湯川秀樹が核力の原因を考え、「中間子」なるものが存在するだろうと予言。  中間子という言葉はこの頃の論文にはまだ出て来ず、しばらくの間「U 粒子」だとか「湯川の粒子」だとか呼ばれていた。  湯川の論文の中で、その粒子のエネルギーを U という記号を使って表していたためである。

 1937 - 1938 年、湯川の中間子場の理論の発展。  陽子間の力、中性子間の力、陽子-中性子間に働く力に差がないことを説明するために、 中間子はアイソスピン 1 を持っており、つまり、3 種類の中間子があるはずだと予言される。  その 3 種の中間子の電荷は +e、-e、0 となっているはずだというのが理論的に示された。

 1937 年、宇宙線の中に中間子らしきものを発見する。  これが「ミューオン」(ミュー粒子)の発見である。  ミューというのは、ギリシャ語のアルファベットの のことである。  正体の分からない粒子をとりあえずこういう具合に記号で表すことは当時普通に行われたことだった。  この粒子の質量は電子の約 200 倍。  それ以外の性質は電子とまったく同じである。  湯川が予言した中間子の質量にちょうど当てはまったので、 本物の中間子が見付かるまでの長い間「ミュー中間子」などと呼ばれ続けていた。  しかし実は全くの別物で、結局は中間子ではなかった。

 そもそも湯川が予言した粒子にしては寿命が長すぎる。  また、中間子は核子間の力を説明するために想定された粒子であるから 原子核との反応がもっと起こってもいいはずなのに、 このミューオンはそのような素振りは見せず、ずっと容易く物質を通り抜ける。  そういうところも理屈に合わなかった。  アルファ線とベータ線の貫通力の違いが大きかったことを思い出すといいだろう。  それと同じくらいの差があるのである。


予想外の展開

 1946 年、V 粒子の発見。

 中間子探しは続けられたが、戦後になって、期待していたものとは違うものが発見された。  粒子の軌跡が急角度で曲っており、その形がアルファベットの V に似ているというので V 粒子と呼ばれた。  とはいうものの、とにかく滅多に見付からない現象であるために数年間は同様の報告もなく、 しばらくはあまり関心を持たれなかったようである。

 この粒子は電子よりずっと重いが、陽子や中性子よりは少し軽めのものだった。  くっきりした軌跡が残ることから電荷を持っていることが分かる。  電荷を持った粒子が崩壊して同じくらいの二つの粒子に分かれ、 一方が電荷を持たず、もう一方が電荷を持つならこのように見えるだろう。  あるいは電荷を持たない高エネルギーの粒子が分裂して、 プラスとマイナスの電荷を持った二つの粒子に分かれた軌跡を見ている可能性もある。

 それにしても不思議なのは、V 粒子自体、見付かることが非常に珍しいものであるのに、 見付かるときには同時に二つの V 字型の軌跡が同じ写真の上に記録されることが多いということだ。  これはおそらく、短期間で連続して起こる反応を見ているに違いない。  二つの V 字型が繋がって見えないのは、電荷を持たない粒子が間をつないでいるせいだろう。

 やがて、このような特徴を持った分裂現象が色々と見付かり、 それに関わる粒子も、電荷を持つもの、持たないもの、重いもの、軽いもの、色々とあることが徐々に分かってきた。  ありふれた粒子である陽子が飛び出してくる場合もあるし、 後に発見されることになるπ中間子やミューオンが飛び出してくることもある。  V 粒子は特定の粒子の名称ではなく、このような不思議な分裂現象を起こす粒子の総称のようなものとなった。

 これは現在の知識によれば、ストレンジ粒子と呼ばれる粒子の生成と、弱い相互作用による崩壊を見ていたことになる。  最初に見付かった V 粒子の軌跡の正体は中性の中間子である の崩壊現象であることが分かっている。  これは湯川が探していた中間子とはまた別のものであるが、そのような分類が行われるのはまだずっと後のことである。

 1947 年、Λ(ラムダ) 粒子の発見。

 その他、V 粒子によく似た崩壊現象を起こすラムダ粒子と呼ばれるものも、 同じ頃に続けて見付かっている。


ついに中間子が見付かる

 歴史を早回しで説明すると言ったのに、V 粒子の話で長くなってしまった。  先を急ごう。

 1947 年、π中間子が見つかる。  (パイ粒子、パイオン、パイメソンとも呼ばれる。)  これはまさに湯川の理論が予言していたものだった。  この時見付けたのは電荷を持つ方の中間子だけであるが、 湯川の功績はこの時点ではっきりと認められ、1949 年にはノーベル賞を受賞している。

 1950 年、中性のπ中間子も見つかる。  発見が遅れたのは、この粒子の寿命が短く、電荷がないせいではっきりした軌跡も残さないためである。  感光版に残された線を顕微鏡を使って探す必要があった。  これで湯川の理論は完全に確かめられたことになる。

 1952 年、泡箱の発明。

 これまで粒子の軌跡を観察するのに使っていた「霧箱」に代わって、さらに性能の良いものが発明された。  冷却した液体水素に一旦圧力を掛け、急減圧することで過熱状態を作って待機する。  その中を粒子が通過したときに、その軌跡に沿って「沸騰」の泡が生じることを利用するのである。  この方式は素早く繰り返すことができるし、軌跡も霧箱より鮮明であり、 液体中なので霧箱よりも密度が高く、さまざまな素粒子反応が起こりやすいという利点がある。  また、密度が高いお陰で粒子が効率良く減速してくれて一つの写真内に収まるので、 粒子の寿命の測定やエネルギーの測定がやりやすかったりもする。  これが、この後の加速器を使った素粒子実験の準備を整えたのである。

 この発明の功績により、ドナルド・グレーザーは1960年のノーベル物理学賞を貰っている。


加速器による新粒子探し

 1950 年代には素粒子の研究手法に革命が起こった。  それまで、せいぜい原子核を叩き壊す実験のために使われているくらいだった粒子加速器の性能が、 ついに粒子を生み出すことのできるエネルギーにまで進歩したのである。

 これまでは宇宙から飛んで来た高エネルギーの粒子がタイミングよく泡箱や霧箱に飛び込む偶然に頼って新粒子探しをしていた。  しかしそれにも限界があり、更なる発見をするためには大気によって粒子のエネルギーが減衰されるのを避ける必要があった。  それで、気球を使って感光版を高空まで運び上げたり、登山をしたりもしたのだった。

 それが今や粒子は狙った場所にどんどん作り出すことができる!  衝突のエネルギーを上げさえすれば歴史に残る大発見ができるかも知れないのだ。  こうして加速器の性能の競争が始まったのである。

 とは言うものの、粒子の生成は確率で起こるものであり、 エネルギーを上げれば上げるほど「すでに珍しくもなくなった軽い粒子」も大量に生み出されてしまう。  大量の写真を撮り、そのような中から、これまでにない性質を持った未発見の粒子を探し出すのは骨の折れる仕事だった。

 1955年、陽子の反粒子である「反陽子」もこのような方法で見付かった。

 驚いたことに、それ以外にも何百、何千もの「新粒子」が見付かった!  それで、素粒子研究は、粒子の分類学になってしまったのである。  当時の混乱した状況は、冗談めかして「粒子の動物園」と呼ばれたほどである。

 なぜそんなことになったのだろうか?  現在知られている基本粒子をどんなに組み合わせてみても、 そんなに多くの種類の粒子を作れそうにもない。  実はこれは同じ粒子の異なる状態を、それぞれ別々の粒子としてカウントしてしまっていたのである。

 例えば原子の場合、電子が一番低い状態に落ち着いて安定しているものと、 電子が励起されて少し上のエネルギー準位に飛び上がったものとでは、質量にほとんど差は出ない。  しかしこの時探していた新粒子というのは、今の知識で言えばクォークが組み合わさったものであり、 原子の中の電子とは比べ物にならないほどの結合力である。  それらが衝突のエネルギーも冷めぬまま励起している状況では、 質量が大きく違って見えるほどのエネルギーを蓄えており、まるで別粒子に見えるのである。  それがエネルギーを放って基底状態に戻る瞬間を確認しない限りは、同一粒子だとは断定できないだろう。  また、励起状態なら角運動量も違っており、スピンが異なる別粒子にも見えたことだろう。

 どの粒子とどの粒子が同一の粒子であるのかを確認する作業は地道なものだったに違いない。  教科書によって「数百の新粒子」だとか「千を越える新粒子」とか表現されるのは、 この分類作業のどの段階を指しているかによる違いであろう。  とにかく、このようにして見付かった粒子は周期表の元素の数を越えていたのである。

 こうして見付かる粒子の全てが基本粒子であるはずがない。  これらはさらに基本的な粒子から出来ているはずだという確信が強まったのだった。


ニュートリノの確認

 1956 年、ニュートリノの存在の実証。

 ベータ崩壊の理論が正しければ原子炉からもニュートリノが出ているはずで、 そのニュートリノを原子核に照射することによって、わずかな確率ではあるが核反応が起こるはずである。  それを確かめるため、 原子炉のすぐそばに検出器を置いて 3 年に渡って地道に調べたのだった。  この実験によりニュートリノの発生頻度が理論と一致することが確認され、 ニュートリノは初めて、理論の上だけの存在ではなくなったのだった。

 このときの検出器の原理は、容器に入れた水にニュートリノを照射し、 水分子の中の原子核と反応した時にできる中性子や陽電子を観測するというものである。

 この実験を行ったのはフレデリック・ライネスとクライド・カワンで、 フレデリック・ライネスはこの功績により1995年のノーベル物理学賞を貰っている。  クライド・カワンが貰えなかったのは、すでに亡くなっていたからである。

 1962 年、ニュートリノに種類があることを確認。

 ミューオンは質量以外の点では電子とほぼ同じ性質を持っているということを先ほど話した。  さて、ニュートリノはベータ崩壊するときに電子と共に出てくる粒子であったが、 それと同じように、高エネルギーの粒子が崩壊するときには、ミューオンとニュートリノが共に出てくることがあると分かってきた。  いや、それが本当にニュートリノであるかどうかは良く分からないが、 この反応の時にもエネルギーを運び去っている目に見えない謎の粒子があるということだ。  そこで疑問が生じた。  果たして、ミューオンと共に出てくるニュートリノ(仮)と、 電子と共に出てくるニュートリノは同一のものだろうか?

 それが実は別々のものであるということが実験で確認されたのである。  ミューオンと共に出てくるニュートリノだけを取り出して原子核と反応させた時には、ミューオンが出てくる。  これは電子とともに出てくる方のニュートリノにはない性質である。  このような実験は加速器によって可能になったのだった。

 この実験を行ったレオン・レーダーマン、メルヴィン・シュワーツ、ジャック・シュタインバーガーの 3 人も 1988年のノーベル賞を貰っている。

 こうして、電子と対になっている方のニュートリノを「電子ニュートリノ」と呼び、 ミューオンと対になっている方のニュートリノを「ミュー・ニュートリノ」と呼んで区別することになった。  これらを記号で表すときには前者を 、後者を のように書く。


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