EMANの物理学 過去ログ No.3748 〜

 ● 疑似科学批判に欠けているもの

  投稿者:Stromdorf - 2008/04/04(Fri) 08:25  No.3748 
 別に「波動○○」とか「霊感○○」とか信じてなくても、実際にそのテの商品を使うと気分が悪くなったりする、というのはよく聞く話ですが、疑似科学への対処について面白いと思ったblogの論評記事があります↓

http://blackshadow.seesaa.net/article/90491867.html#more

 山本七平氏の本の紹介なんですが、私がなるほどと思ったのは、次のくだりです:

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科学を体系的に学んだ人間は、「モノから感じられる何か(臨在感)」は錯覚に過ぎず、実際にはそんなものはないということを教えられる。しかし、好き好んで心理学をかじるようなものでもない限り、人間が「モノに何かを感じる」性質を生まれつき持っているということを習うことはない。その結果何が起こるかというと、例え科学教育を受けたものでも、「何か」を感じてしまったときにその経験と知識の矛盾に混乱を来し、その体験自体を否定するか疑似科学に転ぶかという両極端に走ってしまうことになるのだ。オウムにはまった理系学生などは後者の典型的な例であろう。ましてや白紙状態で何かを感じる経験をしたものは、その経験を絶対視し、それと矛盾する知識を頑として受け入れられなくなってしまう。かくして疑似科学やオカルトのビリーバーが誕生するわけである。
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 EMANさんが#3739で

>ニセ科学批判の失態を目にしたり、不器用さ、説明の下手さを見ているうちに、「もう慣れないことはしなくていいから、そういうのは他の人に任せて、本職に集中しててよ」という思いで一杯になってしまいました。

とおっしゃっていますが、私も全く同意見です。今の擬似科学批判が、「慣れないこと」をしている、というだけでなく、人がものごとを信じ込むことへの洞察が欠けているのが最大の問題ではないか、と思います。

  投稿者:明男 - 2008/04/04(Fri) 10:03  No.3750 
私の考えは少し違いますね。

ニセ科学批判にも色々な立場や動機があり、あるいは信念に従って活動を行っていることもあるでしょう。
行為のまずさや安易な発想、一面的な見方など問題点も多々あることは分かります。しかし、ニセ科学には明らかに無知を弱点として利用する詐欺があり、実被害もあります。
科学者がそれを放任できない思いに駆られることは、学者以前に人として見過ごせない気持ちになることであり、揶揄してはいけないことであると思います。「義憤に駆られる」というのは、現代では「ばか」のように言われています。何を好んで関係ない奴が、所詮偽善だろうに、という声が聞こえそうです。
相手は百戦錬磨の話術者です。その面では素人の学者が劣勢なのは無理からぬことですが、真実という切り札があります。
他のスレッドでも書きましたが、目をつむることは容易なのです。そして、暗黙は了解であると取られても仕方がないのです。そのうち学者達も相手の手口を学習し、簡単には失敗しなくなるでしょう。もともと極めて賢明な人たちですから。
私は一般の人々がそのような学者の活動を支援しなくなることの方が怖いですね。


  投稿者:Stromdorf - 2008/04/05(Sat) 07:18  No.3759 
 もちろん、学者以前に人として見過ごせない気持ちになるというのもわかりますし、科学には明らかに無知を弱点として利用する詐欺があるというのも確かですから、ニセ科学批判をすること自体がいけない、と言っているわけではありません。ただ、それは相手が「空気」という得体の知れない妖怪である以上、それに対する対抗手段を持たない限り、期待するような効果が得られないだろう、ということです。

 この件については、前回引用した幻影随想さんのblogにまた続きとして論評されているところですが( http://blackshadow.seesaa.net/article/92286925.html#more )、要するに疑似科学ビリーバーって、過去や現在の体験やイメージの方を論理的な説明より(理屈ぬきで)重視してしまうんですよね。

 例えば、今話題になっているLHCの話だって、「できたブラックホールが地球を飲み込んでしまう確率」のこと言い出すなら、他のリスク、例えば「ロケットを打ち上げることによる反作用で地球の軌道が変わり、太陽に近づきすぎて海が蒸発する可能性」とかも心配しなきゃならないはずですが、そういう心配から世界で初めてロケットを打ち上げる際に批判が出たという話は聞いたことがありません。これは、当時の人々が太陽・惑星間の多体問題を定量的に厳密に解いて、そんなことがないことを確認したからでも何でもなくて、単にそんなことが「イメージできなかった」からに過ぎないでしょう。今回のLHCの場合は、単にブラックホールの持つイメージである「何でも飲み込んでどんどん大きくなり、2度と抜け出せない」という怖いイメージの方が論理的な説明より強く訴えるものがあるからじゃないでしょうか。
 他にも、遺伝子組み換え作物への不信とかも(遺伝子組み換え以外の品種改良には放射線を当てて突然変異を起こすというのがあるが、こっちの方が何が起きてるかわからない分はるかに危険なはずなのに、なぜか批判は少ない)、「遺伝子という神秘的な神の分野に人間が手を染めるなんて恐ろしい」というイメージ的な不安が判断の重要なウェイトを占めているんじゃないでしょうか。

 要は、疑似科学をたしなめる必要性は、特にそれが社会に危険を及ぼす可能性がある分野については確かに必要であるけれども、それは「空気」という妖怪を相手にする行為なのだという自覚のもとに、それ相応の準備、工夫が必要だろう、ということが言いたかったわけです(それじゃあ何かアイデアを出せよ、と言われたら、私は何も持ってないですが)。

  投稿者:明男 - 2008/04/05(Sat) 12:44  No.3762 
>Stromdorfさん

こんにちは。レスを有り難うございます。
仰られていることは全くその通りで、「空気」の話は面白い見方ですが、大衆相手の煽動、陽動、心理操作、デマゴギーの醸す”雰囲気”は確かに存在しますし、狂信的な集団やカルト集団相手に不用意な発言、行動は逆効果も有り得ます。戦前の日本国内の戦意発揚や隣組による相互監視と言論封殺。それが”常識”であったという経験は活かされねばなりません。そこまで大っぴらでなくとも、疑似科学は同様な心理集団を生み出していること、しかも巧妙さは増していることを感じます。
その意味で、EMANさんやStromdorfさんの危惧は理解できますし、ニセ科学批判活動の批判だと受け取っている訳ではありません。
私の惧れは別のところにあります。一般論ですが、専門的立場にある方々がニセ科学批判活動に関心を持ち、一般の人々と無縁でない領域で発言や啓蒙を行うことは有り難いことであると思います。まあ、本音は無闇に有り難がっている訳でもありませんが、基本的立場は”支援”です。そして惧れは、支援を失った彼らが、”糸の切れた凧”になることです。
Stromdorfさんが書かれていることはその通り、イメージの話も感覚的には同意見、それでも敢えて少し違う、と書いたのは、下世話に言えば「それでも、味方」であることを標榜とするためです。ここへ集う人々がEMANさんが見捨てたと勘違いしないためにも。

  投稿者:Stromdorf - 2008/04/05(Sat) 14:10  No.3763 
 明男さん。私のコメントに付き合っていただいてありがとうございます。基本的には明男さんのコメントに異を唱えるつもりは全くないのですが、ただ一点、「空気」というものについてもう少し補足させてください。
 これは、単なる「雰囲気」というレベルを超えた、人間が生来的に持つ一種の“脳力”に根源を持つものらしく、例のblogで

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 大畠清教授が、ある宗教学専門雑誌に、面白い随想を書いておられる。イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。実をいうと二人ともクリスチャンであったのだが――またユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。
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という例が挙げられているように、「空気」によって“本当に”病気になってしまったりするらしいです。
 同様に、一部の人が「オーラが見える」なんていうのも、当人には“本当に”見えているんだと思います。なぜなら、人がモノを“見て”いるのは、最終的には“脳が”見ているのですから。
 つまり、超常現象のような“非科学的”な体験をすることは普通の人間にも実際にありうることであって、そのことを説明するには、物理学の立場から“そんなことは科学的にありえない”などと物理法則を持ち出してコツコツ説明をするだけでなく、そのような“超常現象”を、人間が(単なる“感じ”などというレベルを超えて)実際に“体験”したとしか認識できないような経験をすることがありうるのだということを、“脳科学・心理学的”な観点もふまえてきちんと説明する必要があるのではないか、そしてそういう観点も踏まえた説明をしないと、実際にそういう“体験”をしてしまった人に対して本当に説得的な疑似科学批判にはならないのではないか、ということです。

  投稿者:明男 - 2008/04/05(Sat) 15:57  No.3764 
なるほど。こちらこそ、駄文にお付き合い頂いて恐縮です。

疑似科学批判そのものついては意見の齟齬は少なそうなので、脱線しますが、少し視野を広げて考察してみます。

人間の五感を越え、第六感、さらにそれ以上の超知覚というものが現実にあるかどうか、生物学的にも解剖学的にも精神心理学的にも、脳科学でさえ研究は緒に就いたばかりですし、本当のところは未分明であると言えますね。例のような事件(?)は多くの心理的事例で知られていますし、その最たるものは、宗教的経験、「神の啓示」でしょう。文学でも「幻視・幻聴」が実経験と変わらない、いわば「第二種の経験」として扱われるように、(個人的経験は)錯誤を起こす心の問題として(幽霊の正体見たり枯れ尾花ですね)、昔から人々はそのような現実に気がついていたようです。勿論啓示はそれより遙かに高次元の問題(と信じている人は多い)ですが。
ネット上でも「人は見たいものを見ている」と言う言葉を屡々見かけますが、哲学的にもある程度真理があるのでしょうね。
科学は、本来、そのような錯誤あるいは独善的解釈や経験至上主義に対向しうる殆ど最良の「作法」であり、言い換えると客観性の集大成、と言えるはずです。そこには宗教者との長い歴史的対立があり、今に始まった事ではないからです。
宗教とニセ科学を同列に論じるつもりはありませんが、この経験は活かせない筈はないし、Stromdorfさんの言われるように心構えをしておけば、カタストロフィは免れるでしょう。

しかし、私には、譬え誰が来ようとも、ビリーバを説得は出来ないと思われます(^^;)。それこそ、誰だったか、「科学もまた一種の信仰であり、客観性という幻想への洗脳にすぎない」などと言い出す輩も・・・とほほですね。