EMANの物理学 過去ログ No.2011 〜

 ● 数学ができないのは国語ができないからだ

  投稿者:冨士 俊雄 - 2007/07/20(Fri) 13:25  No.2011 
 こんにちは冨士です。今回は物理を離れて、「教育」の問題について考えて見たいと思います。

 「数学ができないのは国語ができないからだ」、という考え方を最初に私に教えてくれたのは私の母です。しかし、社会的にはほとんど認識されていません。私が唯一この言葉を目にしたのは、しばらく前まで連載されていた「ドラゴン桜」というマンガの中だけです。

 これに比べて、「数学ができるのに国語ができない子供がたくさんいる」という事実の方がよく知られています。そして、これを反転して「国語ができなくても数学はできる」または「国語の能力と数学の能力は関係しない」と一般的に思われているようです。おそらくこの掲示板の文章を読んでいる人の多くも、自分自身の経験や周囲の観察からこのような認識を持っているのではないでしょうか。

 私も長年理系の人間と付き合ってきて、数限りなくこの話をしてきましたが、「数学ができないのは国語ができないからだ」という認識を持っている人は皆無でした。それで、この考え方を説明できれば、私が前の「揚力」のスレッドで言いたかったことも自ずと伝わるのではないか、と思ったわけです。


 まず、「国語ができなくても数学はできる」という考え方を否定する実例を上げます。それは「数学ができる子供の多くが「文章題」にひっかかる」という事実です。文章題というのは「太郎さんと花子さんがお使いに行きました、、、」というやつです。ついでに、今の皆さんでも必ずひっかかるであろう文章題の一例を挙げておきます。それは「税務関係の法律、通達」です。数学としては、四則演算しかでてこない小学生レベルの内容ですが、専門外の人はまず正解を出せません。

 それは「数学ができないから」なのでしょうか。


 次に、「国語ができなくても数学はできる」という考え方を肯定する実例を上げます。例えば、次のような「記述」があった時、

(1行目) 次の問題を解け
(2行目) 1+1=

 1行目は日本語で、2行目は数学記号で構成されています。しかし、1行目はほとんど意味を持っていません。例えここをドイツ語で書かれようが、ラテン語で書かれようが数学が得意な子供は等号の右に「2」と書けるはずです。

 つまり「国語ができなくても(数学記号を理解していれば)数学はできる」のです。

 それではもう少し拡張して、1行目に「次の問題が解けたら手を挙げろ」と書かれていたとします。この場合、もし1行目をラテン語で書かれたら、私は手を挙げられません。

 つまり「国語ができなくても(数学記号を理解していれば)数学はできる。ただしそれが正しい結果に結びつくとは限らない」ということなのです。

 ここで要求されているのは「手を挙げること」であり、数学ができたかどうかはもはや関係ありません。たとえ数学ができていたとしても、手を挙げなければ採点してもらえず、「評価」は数学ができない人と同じです。

 これで、「正しい結果が得られないのは、国語ができないからだ」という最初の考え方を証明できます。「正しい結果」と「数学ができる」というのは厳密に同じではないのですが、学校教育の現場では同じだと捉えて差し支えないでしょう。


 最後に「正しい結果」と「数学ができる」という言葉の微妙な違いについて説明しておきます。時々数学(算数)ができる子供が、「2/3=1.5」という答えを出してきて、バツにすると、「絶対に1.5で正しい、自信がある」と言います。この場合、「彼の頭の中では数学ができている」と言っていいのだと私は思います。しかし、正しい結果ではありません。

 そういう子供に、赤いチョークと白いチョークを渡して、「赤いチョークで白いチョークを叩いてみろ」と言うと、赤いチョークを白いチョークで叩いてくれます。誤解は、国語(助詞)の解釈にあったわけです。

  投稿者:ねじばな - 2007/07/21(Sat) 09:07  No.2021 
富士さんはじめまして。ねじばなです。教育現場の近くで仕事をする機会の多い仕事をしています。

>社会的にはほとんど認識されていません。
そんなことは ないですよ。算数指導の現場ではよく話題になります。

話し手が 相手に対して 敬意を持ち 共通認識の違いや発想の違いを まず受け止め その上で 自論を展開して姿勢が大事だと思います。私は、自分の意見が相手に伝わらないときは、まず自分の言語力の未熟さを疑うことにしています。

  投稿者:凡人 - 2007/07/21(Sat) 11:52  No.2022 
「言語力の未熟さ」という話題が出てきたので、一言口を挟ませていただきたいと思います。
私は、仕事上、いろいろなプログラミング言語でコーディングする機会が多かったのですが、コードを内容的に如何に重複させずに、簡潔に記述することが出来るのかという事に血道を挙げて来ました。
何故そんな事をやってきたのかといえば、長大なコードは一般的に、@読む気が起きない、A理解を誤る、Bコーディングミスを起こし易い、Cコンパイル・インタープリットに時間がかかる、Dリソース効率が悪くなる、という傾向があると思えたためです。
だから、可読性とのバランスを考えながら、小さいコードで如何に、多くの機能を実装するかという事に注力し、さまざまな工夫を行って来ました。
私は、文章のことは、本当は人には言えないのですが、上記のような考え方が、自然言語表現においても参考になると思います。
皆さんはどのように思われますでしょうか?

  投稿者:明男 - 2007/07/21(Sat) 12:24  No.2023 
初めまして、明男です。
ねじばなさんの言われるとおり、国語があらゆる勉学の基礎であり、算数についてもその例外ではない、あるいはもっと強く必須であるということは、昔から繰り返し言われ、また常識であったことです。非常によく見聞することです。
しかし、その意味合いとしては「てにをは」の使い方のような些末な事ばかりではなく、「言語」を使用した”論理的”思考の訓練、あるいは上位概念の(扱い方の)取得という観点で「国語」を捉えねばなりません。
例えば数学は数学独自の、理科は理科独自の言語(専門語)がありますが、行き着くところは日常語への転換・解釈である以上、その基礎が出来ていないと高度な概念への移行は、ほとんど論外であることは明白です。
人間の思考は大部分「言語」によって為されることを考えれば、「論理的思考」が学問の基礎能力として重要であり、その訓練法(のひとつ)として国語が極めて重要な位置を占めることは必然だと思います。
蛇足ですが、文中の「証明」は何も証明していません。赤い牛を何頭見かけても、牛が赤いことを「証明」したことにはならないからです。

  投稿者:ねじばな - 2007/07/22(Sun) 08:20  No.2026 
凡人さん こんにちは

>、自然言語表現においても参考になると思います。
そうですね。そうして あれこれ考えなくても スマートに魅力的な話が できるといいなと 思いますが なかなか難しいです。

私は小学生から 高齢者までの年齢差 また 大学生や社員研修など いろいろな場面で通訳したり また自分が話すこともあるのですが やはり知ってることを全部言いたくなってしまいそれを 取捨選択するのに悩みます。反省することばかりです。

  投稿者:凡人 - 2007/07/22(Sun) 08:51  No.2027 
ねじばなさん
コメント有難うございます。
>あれこれ考えなくても スマートに魅力的な話が できるといいなと 思いますが なかなか難しいです。
>やはり知ってることを全部言いたくなってしまいそれを 取捨選択するのに悩みます。反省することばかりです。
私も全く同感です。

  投稿者:ワイル - 2007/07/22(Sun) 18:41  No.2029 
こんにちは、凡人さん。

>>私は、仕事上、いろいろなプログラミング言語でコーディングする機会が多かったのですが、コードを内容的に如何に重複させずに、簡潔に記述することが出来るのかという事に血道を挙げて来ました。

私も、一応、IT業界なので。。。
数学も言葉、IT世界におけるプログラミング言語や(MS-DOS/WindowsやLinux/UNIXなどの)コマンドなども言葉、だと思います。

そして、「数学やできないのは、国語ができないから」と同じで、「プログラミングができないのは、国語ができないから」ともいえると思います。

プログラミングは、一種の作文ですからね?
大きなプログラムやシステムを作るとき、設計書を作りますね?
設計書がちゃんとできていれば、プログラミングも、それに基づいて、コンピュータ向きの言葉(CとかBASICとか)に置き換えていくような調子で作れます。
また、そうして作られたプログラムは、デバッグやテスト、保守なども、結構、楽です。
こういうプログラムは、コードをみて、何をしようとしているのか、理解するのが容易だからです、

一方、良くない設計書を基に作られたプログラムやら、さらに設計書なしで作られたプログラムは、テストや保守が大変です。そうしたプログラムは、コードをみて、何をしようとしているのか、理解するのが大変だからです。
中には、丸っきり意味不明なコードが入っていたり。。。

おっと仕事の愚痴になりそうです。

そして、数学も、物理学や経済学などにおける応用数学(あるいは、数理科学とか計算科学)の立場からすれば、理論や法則を記述するための、(記号化された)言葉なのでは、という見方も、ある、と思います。

そこまで行かなくて、小中学校の算数・数学における「文章題」なども、国語力のある子の方が、そうでない子よりも強いですね。

ちなみに、私は、小中学校時代、図形とか幾何学が苦手だったのだが、それは、空間感覚が乏しいから?
物理学でも、電磁気学、相対論、ゲージ理論(場の量子論)、超ひも理論などは、幾何学の素養が不可欠なんですよね?




  投稿者:ワイル - 2007/07/22(Sun) 18:46  No.2030 
とはいえ、子供でも大人でも、国語力を向上させるには、どのようにしたら良いでしょうかね?

やはり、書籍などを、いろいろと読む必要もあると思いますが、他には?

  投稿者:凡人 - 2007/07/22(Sun) 19:49  No.2032 
ワイルさん
>中には、丸っきり意味不明なコードが入っていたり。。。
というのは、私も何度も遭遇し、そのお陰でだいぶ鍛えられました。
今となっては、「丸っきり意味不明なコード」様々です。

>やはり、書籍などを、いろいろと読む必要もあると思いますが、他には?
文章や言葉を使って、人と真剣に論議する事ではないでしょうか?

ところで私は、最近読んだ書籍では、故朝永振一郎氏の『量子力学と私』(岩波文庫)が、学問的内容もさることながら、文学的に見ても、非常にすばらしい内容を持っていると思いました。
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-311521-X
やはり、天才の文章は、私のような凡人でさえ得るところが多かったのではないかと勝手に思っています。

>物理学でも、電磁気学、相対論、ゲージ理論(場の量子論)、超ひも理論などは、幾何学の素養が不可欠なんですよね?
私は趣味で物理学をやっている(?)ので、素養はあまり気にしていませんし、気にする程の素養も持ち合わせていません。
そのために、多くの方にご迷惑をおかけして、大変申し訳無いと思っています。

  投稿者:ワイル - 2007/07/22(Sun) 20:44  No.2034 
こんばんは

>>文章や言葉を使って、人と真剣に論議する事ではないでしょうか?

しかし、そのように議論する前にも、言葉や文章の内容やセンスとか、そうしたものの鍛錬は必要でしょうね?

同じ議論をするにも、言葉使いの内容やセンスの違いによって、相手を、感激させることも、怒らせることも可能ですよ。


>>私は趣味で物理学をやっている(?)ので、素養はあまり気にしていませんし、気にする程の素養も持ち合わせていません。

趣味の「物理」を、少しでも、本職の「IT」に生かしたり、関連付けたりするには、たとえば、数学的な考えやアルゴリズムなどの習得があるのでは、と私は考えています。
それは、決して簡単なことでも、楽なことでもありませんけどね。


  投稿者:ワイル - 2007/07/22(Sun) 21:43  No.2036 
>>私は趣味で物理学をやっている(?)ので、素養はあまり気にしていませんし、気にする程の素養も持ち合わせていません。
そのために、多くの方にご迷惑をおかけして、大変申し訳無いと思っています。

私自身の興味は、物理学だけでなく、化学、天文学や経済学、金融工学などにおいても、あくまでも「数理科学」とか「計算科学」のような分野に偏っていて、それで迷惑もかけているかな?

ITの世界でも、物理学などの自然科学や経済学などの社会科学の世界でも、結局は、人間が捉えた(仮想的な)世界、現象を、「数理的」ともいえるモデル、言葉で記述しているもの、と思います。

だから、客観的に見れば、ITの世界でも、自然科学や社会科学の世界でも、結局は「仮想的」(virtual)な世界、モデル、という感じだとも思える(しかし、どの分野でも、時代が進むほど、そういう「仮想化」のレベルが進んでいっているようにも思える)。


  投稿者:ねじばな - 2007/07/22(Sun) 22:31  No.2037 
>しかし、そのように議論する前にも、言葉や文章の内容やセンスとか、そうしたものの鍛錬は必要でしょうね?

そんなことはないと 思います。誰だってはじめは未熟だし浅はかですから。きちんと向き合う誠意と心意気がある人なら言葉が未熟でも 受信者がそれを補って返信しますし そうやって人は成長していくものだと 思います。

困るのは自分の至らなさに気づかず話の食い違いをいつも他人のせいにしたがる 輩ですね。

  投稿者:凡人 - 2007/07/22(Sun) 23:02  No.2038 
ねじばなさん
私の未熟な文章を補っていただいて、申し訳ありませんでした。
ところで、ねじばなさんが仰られてた事は、天才ボーアの相補性原理と関係しますでしょうか?
相補性原理については、以下のURIを参照願います。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/1/3394010.html

  投稿者:ねじばな - 2007/07/22(Sun) 23:23  No.2039 
凡人さん
>天才ボーアの相補性原理と関係しますでしょうか?

ひゃあ〜 天才ボーア?すみません。知りません。仕事柄、いろんな方と話したりすることが多いので思ったことを述べただけですよ。凡人さんの意見の述べ方、記述の仕方は、とてもわかりやすいし感じがいいです。見習います。

  投稿者:T_NAKA - 2007/07/22(Sun) 23:36  No.2040  <Home>
う〜む、本の紹介をしているページを示しただけでは、これを買って読めと言っているようなものですよ。
ボーアの相補性というと量子力学に興味のある人でも「粒子の波の相補性」くらいしか知らないと思います。
「ニールス・ボーア論文集」なんかをちゃんと読んでいるのは「科学哲学」をやってる人で、ここには来ない種類の人だと思いますが。。。

  投稿者:凡人 - 2007/07/22(Sun) 23:51  No.2041 
T_NAKAさま
申し訳ありませんでした。
ネット上で「相補性原理」の解説を探してみたのですが、客観的な立場からの解説が見当らないと思ったため、苦し紛れに紹介したのが、『因果性と相補性』(岩波文庫)だったのです。
どうかご容赦をお願いいたします。

  投稿者:冨士 俊雄 - 2007/07/27(Fri) 14:07  No.2092 
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>社会的にはほとんど認識されていません。
そんなことは ないですよ。算数指導の現場ではよく話題になります。
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 確かに小学校の先生は、この問題を「痛感」していますね。私は小学4年生から専門学校生(留学生含む)まで教えた経験がありますが、初めて小学生を教える前に、担任から「言葉が通じないことに気を付けるように」と言われました。

 しかし、高校や大学の先生はこの問題を理解しておらず、結果的に「社会的な認識」が欠如することになっています。理由は、新聞記事とか文科省の委員会には小学校の先生ではなく、大学の先生が呼ばれるからでしょう。

 実際極端な例として、私は「A」を「エー」と読めない専門学校生を知っています。だから彼は「ファイルを全部選択する時はコマンド・エーを押して」と私が言っても、どうしていいかわからない。言葉(国語)の問題は、小学校中学校だけの問題ではないのです。

 例えば留学生を教えれば、「言葉がわからない」なんていうのは当たり前だし、自分自身が外国で勉強する時にも常に言葉の問題がつきまといます。だから私は「相手に対して敬意を持つ」なんて抽象的な概念は使わず、「相手は全て外国人だ」と見なして話すように心がけています。

  投稿者:冨士 俊雄 - 2007/07/27(Fri) 14:56  No.2093 
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そして、「数学やできないのは、国語ができないから」と同じで、「プログラミングができないのは、国語ができないから」ともいえると思います。
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 基本的にはそうなんですが、私が想定している「国語」というのは「人間の理解」に絡むものなので、「プログラミング」よりは下に述べられている「設計書」を作る場合に必要とされるものです。設計書の記述が十分であれば、プログラミング作業は「機械的」にできます。

 しかし、設計書(仕様書)はクライアントとの打ち合わせから作成されるので、国語の能力や常識が非常に重要になります。国語の能力は大きく分けて「聞く(読む)能力」と「話す(書く)能力」に分けられますが、特に聞く能力が重要となります。

 ただし、「国語の訓練」としてならプログラミングは非常に優れていると思います。なんといってもコンパイラが「間違い」をその場で明確に指摘してくれるからです。国語そのものを勉強していても(外国語を含めて)、間違いが明確に指摘される場合は少なく、なかなか上達しません。

  投稿者:冨士 俊雄 - 2007/07/27(Fri) 16:22  No.2094 
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とはいえ、子供でも大人でも、国語力を向上させるには、どのようにしたら良いでしょうかね?

やはり、書籍などを、いろいろと読む必要もあると思いますが、他には?
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 技術的には、前の投稿に書いたように「プログラムを書いてコンパイラにチェックしてもらう」という方法が非常に有効だと思います。

 ただし、それは「国語は重要だ」という認識を持った後の話であって、この認識さえない人間には何の意味もありません。私の経験から言えば、この認識を持つのに一番有効なのは「外国で仕事(勉強)をすること」だと思います。

 かくいう私自身、外国(アメリカのコネチカット州)で仕事をする前は、「国語は重要だ」という認識を特に持っていませんでした。それは、日本人が日本に暮らしていると、概念そのもの(例えば物理や数学等の専門)と概念の記述(日本語による)の区別が難しく、何か問題が生じても記述の方の問題とは気がつきにくい、ということです。

 しかし外国で仕事をすると、概念そのものは日本にいる時と変わらず理解できるのに、記述(英語による)だけが理解不能になる、という不思議な状態を体験できます。英語が理解できないのにそれが示す概念を理解できるのは、目の前に実験装置や図や数式など色々と補助にあるものがあり、それらと常識を使って断片的に聞き取れる英単語をつなぎ合わせているからです。

 逆に、いくら英語ができても、それが表す概念を理解できなければ、何も仕事はできません。例えば、一度あるアメリカ人のスタッフの専門が私に近いということで(レーザー)、日系人の人に通訳してもらったことがあるのですが、全然通訳できないんで、結局当事者同士で直接話をしていました。
 
 このような経験から、私は概念そのものと概念の記述は違う、ということを強く実感しました。そして、いくら優れた概念を持っていても、それをうまく記述できないと不便で、役に立たないということも実感しました。そしてしばらく後に、「程度の差こそあれ、日本人が日本で仕事をする場合でも同じことが起こりうるんだろうな」と気がついたわけです。

  投稿者:ねじばな - 2007/07/27(Fri) 23:48  No.2105 
>私は「相手に対して敬意を持つ」なんて抽象的な概念は使わず、「相手は全て外国人だ」と見なして話すように心がけています。

遠まわしに 知性と知識の違いを述べた つもりでしたが おわかりいただけなかったようですね。

外国人でも日本人でも授業でも仕事でも、コミュニケーションする相手に敬意を払うのは基本です。言葉のは自分のためでなく まず伝える相手のためにあると思います。

 

  投稿者:ワイル - 2007/07/29(Sun) 18:39  No.2128 
こんばんは

最近、インド式九九とか、百マス計算とか、そういう算数ドリルが流行っていますね。
日本人は、どうも、算数ドリルが好きなようです。

でも、算数ドリルと、数学とは違うようです。

数学の本質は、論理的な思考、ということで、算数ドリルのように、いろいろと計算を繰り返す、ということと違うと思います。

物理や科学だけでなく、ITの世界や、国際的ビジネスの世界でも、論理的思考が不可欠だと思います。
算数ドリルが、いくらできても、科学やIT、ビジネスの世界で活躍することはできないでしょう。

「日経サイエンス」で、脳科学で有名な茂木健一郎氏による連載記事「茂木健一郎と愉しむ科学のクオリア」があるのですが、最新号2007年9月号では、国際情報学研究所の新井紀子さんとの対談でも、そのような話が載っています。

新井紀子さんも、高校生の頃まで数学が苦手で、大学は法学部に進学した典型的な文系人間だったらしいのですが、大学に入学して、数学に興味をもち、アメリカのイリノイ大学で数理論理学を学んだそうです。

新井さんは、中学で、「宇宙人に掛け算とは何かを教える」授業を行ったそうです。
最初は、「3×5は3を5回、足すことだよ」という子がいる。「じゃあ、3×3.14は何ですか」と宇宙人が言う。。。

あとは、「ヒッグス場とブランス・ディッケ理論」の話の詳細などとともに、最新2007年9月号の「日経サイエンス」を。。。

  投稿者:ワイル - 2007/07/29(Sun) 19:58  No.2129 
国語力というのも、結局は論理力ということでしょうか?
その点で、国語と数学とは、意外と共通点があると思います。

一方、算数ドリルとか、計算練習なんていうのは、国語力や論理力が弱くても、とりあえず、トレーニングさえすれば、できる性質のもの、といえるのではないでしょうか?

  投稿者:明男 - 2007/07/30(Mon) 09:02  No.2130 
決してワイルさんに言っているのではないですが、考えてみれば国語力というのは変な日本語ですね。何とか力というのが本のタイトルや帯書きなどに使われていますが、その是非について金田一先生に問うてみたいところです。
ところで国語は言語の習得という面では算数のドリルのように繰り返し用法を訓練することも大事ですし、文法や漢字の構成などの論理的理解も必要だと思いますが、それらはまだしも目に見える教えやすい部分ですね。しかし文章は言葉の羅列ではなく、作者にある一般常識、経験、素養、思想が背景となり、登場人物の精神状態を心理学的に追ったり、更にリズムや語感、間(ま)などの音楽的要素も含んでいる総合的な作品であると言えます。文書読解力とはかくも複雑な処理を一瞬にできる能力ですから、なまなかな方法では身に付かないのも当然でしょう。
素養のあった昔の人でさえ「読書百編、意自ずから通ず」という努力抜きでは高い読解力は得られなかった、いや、素養があったからこそ繰り返し読むことで真意に辿り着けたとも言えるのでしょう。
結論は月並みですが、出来るだけ多くの本(といっても綿菓子のような甘い本ばかりでは駄目)を読むことに尽きるでしょう。取り敢えず脳にいろいろインプットする。それがある一定以上の量をこなせたら、断片的知識があるとき一瞬でネットワーク化され、互いの連関が相照らし、了解の道筋を立てることができます。それがまた素養となり、更なる高みを目指せるというものです。
これはしかし、国語に限りませんね。

  投稿者:EMAN - 2007/07/30(Mon) 12:59  No.2131 
> しかし文章は言葉の羅列ではなく、作者にある一般常識、経験、素養、思想が背景となり、


 言葉には、意味を多重化して載せるテクニックもありますね。

 ある人には童話にしか見えないものが、ある人に向っては、そこに強烈な政治的メッセージが読み取れる仕組みにしてある、とか。
 聖書にも結構見られます。

 検閲を逃れるために、友人への近況報告のフリをしてはいるが、実はそこに重大な機密を隠している暗号文だったり。

 ドラキュラに幽閉された男がそういう事をして難を逃れようとする話がありましたね。 うちの妻は、「私、あんな手紙もらっても、絶対気付かないわよ」なんて話してまして、がっくり来ましたけど。 自分がああなったら助からんな。 ああ、気付いてくれよー。

  投稿者:ワイル - 2007/07/30(Mon) 15:20  No.2132 
こんにちは

>>決してワイルさんに言っているのではないですが、考えてみれば国語力というのは変な日本語ですね

そうは言っても、けっこう、あちらこちらで、「国語力」という言葉が使われていますね。

「国語力検定」
http://www.zkai.co.jp/kentei/index.aspx

というのもあるし、

文化審議会国語分科会報告案の「これからの時代に求められる国語力について」

http://www.mext.go.jp/b_menu/public/2003/03120101/001.htm

というのもある。



  投稿者:明男 - 2007/07/31(Tue) 09:24  No.2136 
そうなんですよ。だから敢えて金田一先生云々と書いたわけです。算数力はまだしも、理科力とか社会力とはあまり言わないですから、国語力も造語ではないかと疑ってみただけです。
しかし、もしかすると歴史的に使用されていたものかも知れませんから、知っている人があれば教えて欲しいところです。
この「〜力」の表記を見るたびに思い出すのが、昔、「的」論争があって、なんでも「〜的」と付ける本来無かった造語や流行語が日本語の美しさを破壊するという意見もありました。昨今は乱れに乱れて、言うも虚しい状態なのですが。。。

  投稿者:EMAN - 2007/07/31(Tue) 12:43  No.2137 
> 昨今は乱れに乱れて、言うも虚しい状態なのですが。。。


 数年前に気になったのは、「超速」という言葉。
 用例については検索して下さい。
 もう流れに逆らえないほど一般化してますから。

 ある日の心の中の独り言。

 「おいおい、超速ってなんなんだよ?
 超高速か超低速か、
「超」っていうのはそういう使い方するもんだろ?
 それじゃ一体どっちか分からんだろうよ。
 あれ? そうだっけ・・・?
 そうとも限らん気がしてきた・・・。
 でもこれだと「超はやい」ってことにしか・・・あ、あれ?
 超速いって意味か。 うん、普通に使うわ。
 つまり「超速」は問題ない例ってことかぁ。
 いけねー。 筋違いな批判しちゃうとこだったな。

 気を付けないとな・・・。

 ん?・・・って、違ーう!! ダメじゃん俺!
 気づかぬ内に毒されちゃってるよ。 おーこわ。」


 何言ってるか分からない人はすでに毒されてますから
今さら気にしないように。