EMANの物理学 過去ログ No.1509 〜

 ● 数学と科学

  投稿者:ワイル - 2007/05/27(Sun) 13:45  No.1509 
一部の(特に数学苦手そうな)人たちは、物理などで数学が多用されているのをみて、苦々しく思っている人たちもいるらしい。
そして、そのような人たちは、
「自然のあるがままを!!」
と主張しているのだが。。。

じゃあ、その人たちは、私達の五感や、自然言語(日本語や英語、中国語などのこと)で捕らえられる世界、自然だけが、すべてだと思っているのだろうか?

私としては、五感や自然言語では捉えられない世界を知りたい!!

ガリレオ以降の物理学、自然科学においては、ほとんどの法則や理論が、微分方程式や変分原理などの数学によって表現されている(ガリレオ・ガリレイは、落体の法則を、ニュートン以降の時代でいう微分方方程式を解いて求めていた、という。
その意味で、ガリレオ・ガリレイは、人類で最初に微分方程式を解いた人、といえるかも)。

また、1970年前後くらいから、自然科学だけでなく、経済学、経営学や、金融工学などの社会科学の分野でも、かなりの数学が多用されるようになってきている。

それは、自然や社会における複雑な現象を、抽象的かつ簡潔に表現する言葉、道具として、数学が、自然言語より優れた能力をもっているからだと思う。

また、数学は、帰納・演繹の論理に基づく記号論理の一形態でもあります。

(注1) 帰納 ・・・ 様々なデータ、現象から、原理・法則・ルールを見つけ出すこと
(注2) 演繹 ・・・ 原理・法則・ルールから、様々なデータ・現象を導出し予測すること

日本の数学や科学の教育では、こうしたことを教えないで、無味乾燥な公式と計算練習ばっかりですものね?
(というと、ねじばなさんから、「そんなことは、みんな思っています!!」といわれそうですが。。。)

経済学、経営学などは、日本の中学・高校の科目では「社会科」や文科系科目に入っているのかと思いますが、いまだに、数学を排除した文章による説明が主のようだし。
実際の現代では、経済学、経営学、金融工学は、ほとんど、物理学や化学などの理系科目に近い性格の学問だと思いますが。

私としては、経済、経営、金融といった人間社会の現象と、宇宙やミクロといった自然現象とが、数学という共通の言葉で語られる、という事実に興味をもっています。

数学って、結局、何だろう?

最後に、近代科学の祖、ガリレオ・ガリレイの言葉を紹介しよう。

「宇宙という書物は、数学という言葉で書かれている」

  投稿者:TOSHI - 2007/05/27(Sun) 14:34  No.1512 
 こんにちは。ワイルさん。お久しぶり、TOSHIです。

>私としては、五感や自然言語では捉えられない世界を知りたい!!

 私はむしろ「五感=視覚(眼)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(口あるいは舌)、触覚(皮膚)」で感じられる一見「定性的な」表現しかできないと思われるようなものを「定量的な」つまり生体以外の器具や機械で測ることができると捉えたのが「自然科学」特に「物理学」だと思っています。

 たとえば、視覚のうちの色覚、色は三原色の話とか認識する側の動物学的な側面もありますが、この「定性的」としか思えないものを物理的に抽象して「定量化したもの」は光の振動数あるいは波長です。それが引いては光や電磁波を解明する動機の1つでしょう。

 聴覚も音というものを光と同じように「定量化した」ものが物理学の1つになっています。ただ嗅覚、臭いや味覚、味などについては寡聞にして物質が持つ化学的な属性というだけで「定量化」されたかどうかについては知りません。

 いずれにしても「物理学」が道具として、あるいはそれ以上に「数学」と結びついているのは、それが物質の属性のうちの「量的側面」に着目しているからだと思います。

 もっともワイルさんの述べておられる「五感」という意味は素朴な、たとえば「きれいなものを単にきれいと受け止める」ような「風流な見方」のことを言っておられるのかもしれませんね。それはそれで、また興味深い側面であるとは思います。

                        TOSHI

  投稿者:MaT - 2007/05/27(Sun) 14:46  No.1513 
最近の建築界はすっかり逆境で、たいへん気分がよくないので、失礼な発言になることをお許しください。
----------
演繹の欠点:その理論がほんとうに正しいのか、現実を忠実に再現できるのか、分からない。

帰納の欠点:正しく因果関係を捉えているのかわからない。たとえば、電話の普及数と交通事故件数には明らかな相関関係があるが、電話は交通事故の原因ではない。

つまり、数学は高度に形式化された表現であるために、自然現象を忠実に記述したものであるかどうか、検証の方法が見当たらない。また、形式化には多大な発想力を必要とする。
というあたりが、今の数学の限界ではないでしょうか。

私は、最近次々と不祥事を起こしている建築界にいるわけですが、不祥事の半分は単純な物理現象が理論的に解明されていないことが原因。という感想を持っています。

もし、ワイルさんが、数学&物理で何でもわかると言われるのなら、地面にまっすぐな棒を立て、これに地震の揺れ(純粋な水平揺れでよいです)がかかり、揺れが大きくてフックの法則を超えた変形が起きたときの棒の変形量と棒がちぎれないための条件(どちらも一般解)を教えていただきたい。

こんな基本的なことに答えが出ていない現在の数学&物理に工学者は愛想をつかし、実験式でその場しのぎの解を求めている(地震が来るたび解が変わる)現状を知っていただきたい次第です。

  投稿者:ワイル - 2007/05/27(Sun) 15:10  No.1514 
こんにちは

>>つまり、数学は高度に形式化された表現であるために、自然現象を忠実に記述したものであるかどうか、検証の方法が見当たらない。また、形式化には多大な発想力を必要とする。
というあたりが、今の数学の限界ではないでしょうか。

ニュートン力学、相対性理論、量子力学といった既存の科学理論が、本当に自然現象を忠実に記述しているかどうか、といわれると、いろいろとあるでしょう。

まず、人間は、本当というか、究極の自然の法則を知らないわけですよ。

そこで、既成の実験や観測で得られた事実をもとに、数学的なモデル、模型の理論をつくり、それを再び、実際の現象にあてはめてみて、実験や観測で得られた事実、データと比較し検証し、とりあえず、その時点で矛盾のない法則・理論を、「正しい法則・理論」として採用する、というのが、ガリレオ、ニュートン以来、今日までの物理学や科学のやり方、といえる。

その法則・理論の検証というのは、ニュートン以来の近代物理学、近代科学における、法則、理論は、微分方程式や変分原理などの数学で記述されているわけですが、それを現実の自然現象にあてはめて検証し応用するには、そうした微分方程式や変分原理を解かなければならない。

つまり、微分方程式などの法則がわかったといっても、それだけで、実際の現象を把握できたわけではない、というのが、近代科学の手法の限界の一つでもあると思います。

たとえば、現実問題として、最も素朴なニュートン力学の範疇のものでも、紙と鉛筆で解けるものは、ごく僅かだ。

>>私は、最近次々と不祥事を起こしている建築界にいるわけですが、不祥事の半分は単純な物理現象が理論的に解明されていないことが原因。という感想を持っています。

それは、ちょっと違うと思うな。。。

相対論や量子論はいらない、普通のニュートン力学で扱える、自由落下や振動などの単純な問題でも、力学などの教科書などで解法が紹介されている簡単な問題を除けば、正確に解ける、一般解が求められる問題は、ごく僅かです。

というのは、1次元のニュートンの運動方程式は、
http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/diff.html
の冒頭にあるような形をしています。
ここで、力Fが、定数とか、変位xについての一次関数の形(つまり、線形)をしていれば、それは紙と鉛筆で、簡単に解けます。

しかし、この力Fが、xについての2次間数や3次間数の形(いわゆる、非線形)になれば、もう、紙と鉛筆で容易に解くことはできません。

さらに、この力Fが、xについての指数関数などの、もっと複雑な形をしていれば、その解法は、非常に複雑になります。

バネなどの振動の問題でも、Fの形が線形(いわゆる、フックの法則の形)なら簡単に一般解を得ることができますが、複雑な非線形の形になったら、もう、紙と鉛筆の計算では、お手上げだ。つまり、一般解は得られない。

こうした問題は、ニュートン力学でなく、相対論や量子論を用いれば、あるいは、未知の新理論ができれば解決する、というタイプの問題ではありません。
法則は、ニュートン力学、運動方程式のレベルで十分です。

ただ、その法則から現実の現象への演繹の方法、つまり数学的に解くことが困難というわけです(つまりは、物理の問題というより、数学的な問題です)。

それは、中学・高校の代数で習う代数方程式について、1次方程式は、四則計算で簡単に解け、2次の方程式も、さほど複雑でない解の公式を使って、実用的に解けるが、3次、4次の方程式になると、解の公式が非常に複雑になって実用上困難になり、さらに5次以上の代数方程式では、そういう解の公式を使った代数的解法では解けなくなる、ということと似ています。

さらに、大気、海洋や地殻の運動、状態を決める運動方程式は、基本的には、ニュートン力学の範囲のものなはずだが、その基礎方程式は、流体力学の非線形なナビエ・ストークス方程式などの複雑な形のもので、紙と鉛筆の計算では、ほとんど解けない、一般解は求められない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%A8-%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BC%8F

それで、高速なコンピュータによる数値計算となるわけだが、複雑な非線形問題は、スーパー・コンピュータを用いても、時間が非常にかかる。精度を上げようとすると、さらに時間がかかる。
高い精度の結果を、より速く、というと、コンピュータの性能を上げる必要がある。

また、時間がかかっても、収束した解が求まれば良いが、いわゆる、非線形問題の場合、下手に計算をすすめれば、収束した解に辿りつけないで、発散してしまって、解が求められないことも多いという。

さらに、法則・理論の「正しい」というのも、実験や観測の技術があがり、時代とともに変わっていきます。

ご存知だと思いますが、19世紀半ばまでは、ニュートン力学は「絶対正しい」理論とされていたが、19世紀後半以降、それに陰りがみえ、それに変わるものとして、相対論や量子論が登場して、ニュートン力学が正しいとされる適用範囲が限定されたわけです。
相対論や量子論にしても、いまのところ破れが発見されていないが、近い将来、それが発見される可能性は、当然あります(それで、「超ひも理論」など、既存の相対論や量子論を超えた理論も、いろいろと考えられているわけだが)。

>>ワイルさんが、数学&物理で何でもわかると言われるのなら、

そうは思っていない。
そもそも、現代の人類の科学そのものが、自然現象や社会現象に対する、一種の「目隠し物当てゲーム」のレベルでしかない、と私には思えます。

しかし、人類は、この300年ほど、自然や社会の現象を記述する言葉、道具として、数学に代わるものを得ていない、ということが、現実でもあり、事実でもあるのでは?

自然言語で、自然や社会の現象を記述すには、あまりにも冗長になりやすし、各自の主観も入りやすいわけですし、客観的な検証、応用も難しい。

そうしたことで、自然言語は、数学に代わって、自然や社会の現象を記述する言葉、道具には、ならないのは、過去の歴史が教える通りだと思う。

まあ、「数理科学」(サイエンス社の雑誌)あたりの話の受け売りではないですが、イヌやイルカのような動物の知恵が賢いといっても、人間からすれば、それなりのものでしかないように、自然や宇宙からすれば、人間の知恵や科学にも、やはり限界があると思います。

しかし、我々、人間は、その限界のなかでやっていかなければならないのも、確かでしょう?

>> もっともワイルさんの述べておられる「五感」という意味は素朴な、たとえば「きれいなものを単にきれいと受け止める」ような「風流な見方」のことを言っておられるのかもしれませんね。

私というより、いわゆる「トンデモ」さんたちの記述における「自然のままに」という場合の、「自然」って、きわめて素朴な五感で捉えられるものだと思いますが、TOSHIさん、いかがでしょうか?

たとえば、重力、電気や磁気の存在は、現代では、あたりまえのような存在ですが、ニュートンやクーロン以前の時代の人たちにとっては、どうだったのか?

重力、電気や磁気といったものは、素朴な私達の五感では、直接、その存在を認識できませんよね?

ニュートンやクーロンたちの時代、あるいは、それ以前の時代の素朴な意味での「力」といえば、筋力や摩擦力のように直接、物と接触して作用を及ぼす存在だけだったと思います。

そういう時代に、ニュートンやクーロンは、重力、電気、磁気などの、直接、物と接触しないで作用を及ぼす「力」について、最初の数量的法則を発見したのですが、それらは、彼らにとっても、「不思議」な存在だっと思います。

実際、そういう近代科学が普及する以前の中世や、日本の江戸時代などの時代では、物や人が落ちたり、惑星などが運動したりする重力現象、摩擦による静電気や雷のような電気現象、永久磁石などによる磁気現象といったものは、神様や魔女、鬼などの仕業、と考えられていたわけで。。。

現代では、それらを追求していき、さらに進んで、影の世界とか、高次元の世界とか、完全に私達の五感では捉えられない世界の話が、出てきているわけですよね?


  投稿者:ワイル - 2007/05/27(Sun) 16:19  No.1515 
>>つまり、数学は高度に形式化された表現であるために、自然現象を忠実に記述したものであるかどうか、検証の方法が見当たらない。また、形式化には多大な発想力を必要とする。

音楽なんかでも、近代西洋の音楽(いわゆる、17,18世紀あたりから後の時代の音楽)では、ピアノやオルガンの鍵盤をみれば解るように、1オクターブを12の半音で分割して、その半音を基に音楽を組み立てている。
その事実は、いわゆるクラシック音楽だけでなく、現代のジャズ、ロック、ポピュラーでも、ほとんどです。

でも、日本や東洋の伝統音楽なんかでは、半音と半音の間の「微分音」なんかも珍しくないわけです(西洋音楽でも、近代以前の中世音楽や、第一次大戦後の現代音楽では、そういう「微分音」が使われている作品もあるし、ギターやヴァイオリンのような弦楽器では、微分音を出すことは不可能ではないらしい)。

つまり、近代西洋の音楽では、半音と半音との間の微分音を捨てているわけです(近代西洋の音楽では、その代償として、いわゆる対位法や和声音楽を発展させ、フーガ、ソナタ、交響曲、オペラのような大きく豊かな音楽作品を作り出したわけです)。

近代西洋音楽の世界における「微分音」ではないけど、近代西洋の科学では、法則や理論を「数学」という言葉で表現することで、得たものもあれば、捨てたものもあるように、私には思えます。

しかし、音楽において交響曲のような大きな作品を作るためには、半音以下の音を捨てる必要があったように(第一次大戦以降の音楽では、微分音なども使った作品はあるが、あまり大きな作品はないのも事実)、近代科学においても、いまだ数学的手法による法則・理論の記述という方法より優れた方法を見出していない、というのが現実だ。

また、私達の日本について考えれば、明治以降、西洋から近代の音楽・芸術や科学を導入しました。
しかし、日本の音楽・芸術も、西洋のものに劣らず豊かですが、西洋のものを導入したとき、それを捨てていきました。
西洋の近代の科学技術を導入し、確かに生活は便利になりましたが、それとは引き換えに、豊かな自然や人情などを捨ててしまっています。

また、近代西洋の音楽・芸術や科学の方法などに、抵抗のある日本人も少なくないわけだ(パソコン、インターネット、携帯電話などを受け入れられない人も、特に高齢者では多いし)。

それは、近代西洋流の建築技術による地震対策も、いろいろと精巧そうな方法のようで、あまり、そうではなさそう。

というのは、そういう近代西洋流の建築技術で作られた現代のマンションより、近代西洋流の建築技術が伝わる以前の時代、たとえば、江戸時代、明治時代といった時代に、日本の優れた職人さんたちによって建てられた古い民家や寺などで、大きな地震や風にも耐えて潰れず残ってきた建物があるわけで。。。
そういう古い民家や寺の建て方は、日本の優れた職人さんたちの経験によって得られたものだろう。

しかし、そういう優れた職人さんたちの経験による方法では、安定して比較的安価で安全な建物を作ることはできないわけだ。

そういう優れた職人さんを使うには、安くはいかない。
実際、そういう職人さんたちによって建てられた丈夫な民家や寺は、江戸時代や明治時代においても、一般の庶民が住めるわけではなかった(寺などはもちろん、立派な民家というのも、いわゆる、名主や庄屋、地主などの富農とか、大商人などの、いわゆる金持ちの住まいだ)。
現代でも、そんな優れた職人に頼んで作ってもらったら、それこそ、我々、都会の一般庶民が住める価格のものではないだろう。

そこで、西洋近代の建築法の導入、となるわけでは?

また、現代のマンションなどの地震対策が考えている地震の大きさは、せいぜい、1923年の関東大震災や、1995年の阪神大震災のレベルのものだろう。
しかし、それ以上の規模の地震が、きてしまったら、それは無意味にもなるが、そういう建物を建てるには、かなりの費用が必要なこともありましょう。

>>私は、最近次々と不祥事を起こしている建築界にいるわけですが、不祥事の半分は単純な物理現象が理論的に解明されていないことが原因。という感想を持っています。

これは、結局は、物理、数学や科学の問題でなく、やはり、マスコミなんかの煽りすぎが原因だと思う。

「あるある」問題などを見ても、日本の多くの人たちやマスコミは、この世に完璧なものがあると、信じているのかな?
あるいは、科学は完全なものと思っているのかな?

でも、人間がやること、作ることに完璧なものを望んでも、不可能だ。特に自然相手ではね?
ちゃんと物理や科学技術などを勉強・研究しているひとたちなほど、むしろ、現在ある科学技術が、完全どころか、不完全きわまりない、ものということを解ってくると思うし、それは承知している。

しかし、現実の人類にとっては、科学技術が、そのような不完全な状態であっても、それが現実だから、しょうがない。

繰り返すようだが、現実の科学技術の手法より優れた手法は、あるかも知れないが、いまだ人類は、それを見出していないのも事実だ。

また、現実は価格とのバランスも問題だ。
非常に立派な建物を望もうとすれば、一般庶民には手の届かないものになるだろう。

地震による被害が嫌なら、日本でそんな立派な建物に住むより、アメリカ東部(ニューヨーク)など、地震が極めて少ないところに住む方が、安上がりだろう。

我々、庶民としては、割り切って、価格とのバランスで買ったり、借りたりしなければならないのが現実だ。

>>最近の建築界はすっかり逆境で、たいへん気分がよくないので、失礼な発言になることをお許しください。

建築業界より、私達のIT業界の方が、事実をいえば、すさまじいと思いますよ。

仕様書がなくなって、バグだらけのプログラム、安定稼動しないサーバー、なんて、いくらでもあります。
そんなのは、建物だったら、大変なことでしょう。

プログラムやソフトウェアは、見えないものだし、そのバグも一般には生命などに関わらないから、建築業界ほど騒がれないのかも知れませんが。

建築業界やIT業界も、明らかにどうしょうもなく、不完全だが、そこで働いている我々、技術者としては、その不完全な現実の中でやっていかなければならないのも、現実なわけだ。

なんて、仕事の愚痴みたいですね。



  投稿者:ばけがくか - 2007/05/27(Sun) 20:47  No.1516 
前回toshiという名前で登場したのですが、TOSHIさんとかぶってよろしくないかと思って
改名しました。

ワイルさんに質問なのですが、
経済学・経営学・金融工学と化学や物理を並列していいのでしょうか?
化学や物理等では、実験によって理論の妥当性や正当性がある程度簡単にチェック出来ます。
数学的に許されている解か?現象を説明するのに妥当な近似か?
というのは実験でチェックされます。
しかし、経済学などでは実験でチェックが出来るのでしょうか?政府による決定によって
経済は非常に大きく左右されていると思います。このような経済分野では、数学はどこまでも
「手段」でしかありません。本質を貫いてはいないと思います。勿論、数学者によって整備されたり
分かってきた事も多々あると思うのですが、実験によるチェックが可能でないという部分において
化学や物理と並列する事は難しいのではないかと考えています。

  投稿者:ワイル - 2007/05/27(Sun) 21:34  No.1517 
こんばんは

>>経済学・経営学・金融工学と化学や物理を並列していいのでしょうか?

そこまでは、私には言えない。

ただ、現実問題、純粋に文系科目として扱うのは、たとえば、これから経済学を勉強しようとする、高校生などにとって、誤解を招きそうでは、ということを、私は言いたいだけです。

>>政府による決定によって経済は非常に大きく左右されていると思います。このような経済分野では、数学はどこまでも

政府によって、経済のパラメータなどが変えられるわけで、その変えられたパラメータによって、予測や検証は不可能なのでしょうか?

たとえば、政府などによって、物価や為替というパラメータが変えられたとします。
それによって、庶民の商品などへの需要と供給のバランスが変わったり、景気が変わったりしますね?

そして、その場合、経済学の専門家などが、需要と供給のバランスや景気などの予測や検証をしていたりしますね?(当たっているかは別ですが)。

まあ、経済や金融の予測は、競馬などの予測と同じで、必ずしも当たるわけではないでしょう(自然科学の世界でも、天気や地震などの予報が、必ずしも当たるわけではないですし)。

でも、必ずしも当たらない、というのが、まともな「科学」なのです(そのような予測は、あくまでも、確率や統計という手段で行っているわけで)。

>>このような経済分野では、数学はどこまでも「手段」でしかありません。

そう、あくまでも、数学は手段や道具にあたるものです。
経済学だけでなく、物理学や化学においても、数学は、あくまでも「手段」です。

本質的で大事なのは、経済界や自然における現象への洞察でしょう。
数学は、あくまでも手段、応用でしかすぎない。

ただ、物理学などの自然科学においても、経済学などにおいても、現象や法則・理論を記述する手段として、数学より優れた手段、道具が、存在しているでしょうか?

しかし、たいがいの学校における数学の授業が、無味乾燥な公式暗記と計算練習に終始しているためでしょうか?
数学に対するアレルギーを感じますね?

EMANさんの「趣味で物理学」では、数学式のことを「記号化された絵図」のように捉えている感じがあります。
このような見方は、物理学などだけでなく、経済学でも、お勧めできるのではないだろうか?

また、そのような見方をすれば、多少は数学に対するアレルギーが消えるのでは?



  投稿者:ワイル - 2007/05/27(Sun) 21:50  No.1518 
>>最近の建築界はすっかり逆境で、たいへん気分がよくないので、失礼な発言になることをお許しください。

建築の世界の本当の問題は、耐震などの問題より、別にあると思います。

地方の豊かな田園地帯の風景に合わないファミリー・レストランやショッピング・センター、京都のような古都の風景に合わない巨大な軍艦のような駅ビル。

こうしたものは、本来の豊かな日本の風景を壊している、といえるのではないでしょうか?
そして、耐震の問題より、こういう日本の風景に不似合いなデザインの建築物こそ、現代日本の建築における、大きな問題だと思います。

最近、京都や奈良などの古都では、古い町屋(京都や奈良において庶民が暮らしていた家のこと)を改修した料理店やブティックなどが多くあります。

また、東北地方の農村に行くと、古い農家を改修して、蕎麦や山菜料理などをたべさせる店などが、あります。

そうした店に入って、そういう町屋や農家の中をみると、日本の気候風土と、日本人の感覚にあった作りに関心させられます。

京都や奈良あたりは、夏になると多湿高温の気候。
つまり、蒸し暑いんですね?
でも、京都や奈良の町屋は、床を高くしたり、建物の敷地の中に草やコケなどの緑豊かな中庭をつくったり、軒先に深く茂った木の幹を植えたりして、風通しを良くして、そういう多湿高温の季節を、快適に過ごせるような知恵がみられます。

これは、京都、奈良の町屋だけでなく、関東以南の日本の古い民家に見られる工夫でしょう(東京の下町などでも、たまに残っている)。しかも、現代の扇風機や冷房機による冷房と違って、体に優しく、心地よいです(しかも、そういう自然の柔らかな風を作るのに、電気エネルギーなどは不要なので、光熱費やエネルギー消費量も、ほとんどゼロです。だから、そういう町屋のつくりは、人間にだけでなく、地球にも優しいのですね)。

雪国の東北地方の農家では、天井を高くして、雪の深い冬でも、そこから日の光が入るようにしたり、あるいは、人が出入りできるようにしたり、といった工夫があるわけです。

そういう日本の昔ながらの町屋や農家には、近代西洋の建築技術による近代マンションでは得られない、日本人にとっての心地よい住まいがあると思います。

欧米からの外国人さんのなかにも、そういう日本古来の町屋、農家、民家を知り、関心し、憧れ、住み着いている人がいる、ということです。
一方、多くの現代日本人は、そういう日本古来の住まいの良さを忘れて、近代西洋建築技術による無機質なマンションに憧れている感じでしょうか?

少なくとも、東京あたりの無機質なビルの中で飲食いするより、そういう、日本の古い町屋や農家の床やお座敷とかの中で、飲食いする方が、たいがいの日本人なら、心落ち着くことでしょう。

  投稿者:MaT - 2007/05/28(Mon) 13:15  No.1520 
他業界のはなしについて、専門外の私が言っても説得力ないので、建築の事だけ書いておきましょう。
また当然のことながら、物理学と無関係な、人の利害、感情にまつわる問題は対象としていません。

>また、現代のマンションなどの地震対策が考えている地震の大きさは、せいぜい、1923年の関東大震災や、1995年の阪神大震災のレベルのものだろう。
>しかし、それ以上の規模の地震が、きてしまったら、それは無意味にもなるが、そういう建物を建てるには、かなりの費用が必要なこともありましょう。

まず、念のため訂正しておきますが、
>せいぜい、1923年の関東大震災や、1995年の阪神大震災のレベルのものだろう。
関東大震災は通常地震(かなり大きめ)ですが、阪神地震は、かってない最大級地震で、「せいぜい」と呼ぶようなものではないですよ。

で、本論ですが、
今の建築設計は、来るべき東海・南海地震に備えて、最大級の地震でも被害を最小にするべく設計しています。現に阪神地震でも、最近20年間に設計された建物では、(手抜き工事を除いて)これといった被害は出ていません。
とはいえ、中には、運良く被害を免れた感の物もあって、相変わらず、地震のたびに法律が変わる状態に変わりはありません。

性能とコストのぎりぎりのバランスを取るために、我々は日夜苦労を重ねているのだけれど、そのための物理と数学は、あまりにも貧弱なものしかない状況を理解していただきたい。

建築(フックの法則外の応力)以外にも、臨界点付近の気体の体積、非線形特性の電気回路、カオスと呼ばれるもろもろの現象、と、物理と数学の無力を嘆きながら、むりやり答えを出さなければならない状況は多い・・・いや、大部分の工学はすでに限界に達していて、そういう状況のはず。

コンピュータのシミュレーションは、ほとんどが、ちょっと入力条件を変えるだけで大きく結果が変わる=バタフライ効果状態なのが分かっているでしょうか。そのため、いくつか想定した条件を試して、とりあえず納得しているに過ぎません。考えられるすべての条件を試せば、答えは収束しません。今のところコンピュータも現状打破の道具とはならないのです。

ワイルさんは、いつも、答えの範囲を広げ、話をぼかしてしまう。すでに出た答えの確認のようなものですが、今度は、ぼかさずに、はっきりと答えてほしい。
?「数学は宇宙、いや、我々の身近な世界でさえ、記述することができるのか?」
?「物理学の記述は数学中心の状態のままでよいのか?」

  投稿者:ワイル - 2007/05/28(Mon) 13:41  No.1521 
こんにちは

>>?「数学は宇宙、いや、我々の身近な世界でさえ、記述することができるのか?」

それは、どのレベルか、ということにもよりますね?

完璧に記述できるか、というと、それは不可能だと思います。

私たち人間は、宇宙からすれば、あまりにも小さすぎ、ミクロの世界からすれば、あまりにも大きすぎの中途半端な存在。
それは、個人のレベルだけでなく、人類の生活圏というレベルでも、きわめて狭い、ということです。

それは、空間的スケールだけでなく、時間的スケールについてもいえるでしょう。
最近の観測など分かっている範囲でも、宇宙の年齢は137億年くらいといいます。
それに比べ、私たち人間個人の寿命は、せいぜい100年です。
また、人類の歴史も、文明をもつようになってからは、1万年くらいが、せいぜいでしょう。

そんな人類が、宇宙、ミクロや自然の全てを知ることはできないのは、明らかです。

でも、だからといって、何もしなかれば、何もわからないまま。

だから、人類は、いろいろと工夫して、少しずつでも自然のことを知り、応用していきたい、というわけです。

そのような意味で、モデルとか模型というレベルでの近似的な記述ということでいえば、既に可能、といえます(ただ、その場合、レベルとか精度が、問題になりますね)。

実際、それで、さまざまな応用技術も出てきているわけです。

しかし、最も、私たちに身近なもの、といえば、私たち人間を含む生命とか精神といったものでしょうか?
そうしたものについては、いまだ、あまり解明されていない、という感じですよね?(私は、生命科学や精神科学には、あまり詳しくないけど)。

だから、いろいろと治療の困難な病気も、まだ多くあるわけです(しかし、生命科学や医学の進歩で、治療が可能になった病気、人の平均寿命も延びた、という成果も、それなりにあります)。

また、海洋なども、人類の身近にありながら、あまり解明されていない感じですね。

>>?「物理学の記述は数学中心の状態のままでよいのか?」

良いとか悪いとかというより、では、逆にお尋ねしますが、物理学の記述として、数学以外の手段、方法として、どのようなものが考えられますか?

まあ、もし、そのような方法があれば、世の物理学者たちは、そういう良い方法を、とっくに採用しているのではないでしょうか?

まあ、この問題は、私たち末端の技術者とか、「趣味で物理学」で、考えてもしょうがない問題でしょうし、最先端の物理学者や数学者であっても、さほど変わらないでしょう。
最先端の物理学者や数学者も、新しい物理数学の開発の研究はすれど、「物理学の記述に数学が最適か」という問題は、あまり考えていないのでは。

それより、まず、この「EMANの物理学」や「趣味で物理学」で、物理と物理数学の基本を勉強しましょう。

また、物理と数学の関係については、田原真人氏のサイト
http://tahara-phys.net/
にある、例え話が、面白いし分かりやすい感じです。
あと、同じ田原真人氏の著書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4798012807/emansphysics-22/ref=nosim
も参考になります。

>>性能とコストのぎりぎりのバランスを取るために、我々は日夜苦労を重ねているのだけれど、そのための物理と数学は、あまりにも貧弱なものしかない状況を理解していただきたい。

そんなこといったら、私たちのIT業界なんか、いまだに、プログラムのバグを見つけ排除するための、合理的というか科学的な方法は一切ありません(ソフトウェアの世界も、30,40年の歴史があるのですが)。

テストしながら、プログラム・リストをおいながら、といった泥臭い原始的な方法しか、いまだにありませんよ。
しかし、いろいろと工夫などをすれば、それなりの改善は可能です。

たとえば、物理や数学が貧弱といいますが、それでは、耐震を考える前に、地震や地球の物理と、そのための数学など勉強してみましたか?

確かに、地震や、耐震の科学・研究は、素人考えでも、他の分野に比べ、まだ、歴史的に浅い分野という気がします。
それは、近代科学が発達した、イギリス、フランス、ドイツとか、アメリカ東部のような地域は、あまり地震のない地域のようです(イタリアとかアメリカ西海岸などは、地震が多い感じです)。
実際、明治時代にイギリスなどから日本にやってきた人たちは、(日本人にとっては)さほどでない地震にも、非常に驚いていたそうです。

そういう地震があまりない地域、国の科学者や人たちは、当然、地震や耐震の研究の必要性を、あまり感じないでしょう。

そういったこともあって、地震や耐震の科学は、まだ、これからのように思えます。

それでも、耐震について考えるためには、地震や地球の物理のことを深く知る必要があるのではないでしょうか?

たとえば、竹内-モロデンスキー方程式を調べてみるとか?
(ここでいう竹内は、地球物理学者の竹内均のことです)

いろいろと、新しい知識を勉強したり、失敗を恐れず試行錯誤をしてみては、いかがでしょうか?

いまの時代、どの分野でも、本当の最先端の知識・技術を得るためには、日本語文献だけでは難しいようです。
英語などの文献も探してみては、いかがでしょうか?

>>関東大震災は通常地震(かなり大きめ)ですが、阪神地震は、かってない最大級地震で、「せいぜい」と呼ぶようなものではないですよ。

マグニチュードで表せば、
関東地震 ・・・ M 7.9
阪神淡路地震 ・・・ M 7.3
だそうです。

これらより大きい地震は、
濃尾地震(岐阜県・1891年) ・・・ M 8.4
南海道地震(和歌山県・1946年) ・・・ M 8.0
十勝沖地震(北海道・1952年) ・・・ M 8.2
などが、日本でもあります。

世界では、もっと大きな規模の地震があります。

観測史上最大の地震は、1960年5月22日に南米チリでおきた、チリ地震だそうで、それは、M 9.5だそうです。
このとき、日本でも三陸沖などに大津波が押し寄せ、大きな被害が出ていますので、その規模の凄まじさがわかるでしょう。

マグニチュードが1あがると、地震のエネルギーは、32倍ほどになります。
阪神淡路地震のエネルギーにくらべ、チリ地震のエネルギーは、約2000倍なのです。

こんな巨大地震が、日本でおきたら、日本全土に大きな被害が発生し、関東地震や阪神淡路地震の比ではないでしょう。

  投稿者:EMAN - 2007/05/28(Mon) 20:00  No.1524 
 MaTさん、

> ワイルさんは、いつも、答えの範囲を広げ、話をぼかしてしまう。

 MaTさんがそう感じられることについては同意しますね。
 ワイルさん、もう少し的を絞って簡潔に書いて頂けると助かります。 全部を読んで、意図を追いかけるのは私も大変です。


 でもワイルさんに、特にごまかしの意図があったり、相手を煙に巻こうとしているのではないことは分かっているつもりです。
 真剣に答えていらっしゃいますから。


 再び MaTさんに、以下の件で、コメントします。

> 性能とコストのぎりぎりのバランスを取るために、我々は日夜苦労を重ねているのだけれど、そのための物理と数学は、あまりにも貧弱なものしかない状況を理解していただきたい。




 物理や数学というのは、無力でいいと思いますよ。 研究の成果によって色んなことが可能となる・・・それと同時に、「何ができないか」ということも学んで来たのです。

 MaTさんの言われる予言能力における無力さも、物理学の側では十分承知していて、その理由も分かってきているし、物理学者は、これ以上は我々の問題ではないと考えているわけです。

 分からないものは分からない。
 分からない理由は分かっている。
 これ以上、我々が立ち入る問題じゃない。

 そういうのを、「言い訳」とか「逃げ」とか、そういう言葉で批判されることも良くあちこちで見かけることですけれど、批判されても、また、過度の期待をされても、困ってしまうのです。

 「予言できない」のがこの宇宙の現実であって、「宇宙の現実」を明らかにするのが物理学者の仕事なのですから。

 「宇宙に文句言って下さい」ってわけです。



 カオスの問題などについて。
 これは物理の未発達のせいではなくて、本質的に、「制御しきれていない技術的要素」が「多過ぎる」ことが本当の問題なのだと思いますよ。


 何か問題があって限界を感じているなら、問題の本質を変えてしまうという解決法もありますよね。
 耐震から免震へという流れはその一つであったとも、素人目では感じております。

 どんなに科学が発達したって、コストとの戦いであることは昔からずーっと、これから先も変わらないと思います。


 立てた棒がいつどちらへ「クシャッ」と行くか分からないなら、強度を犠牲にして、わざと初めから曲げて設置しておいて、「ある力以上では確実に設計通りに壊れる」との保証が出来るような、物理学が予言能力を発揮し易いやり方も解決策の一つですよね。

 多分、コストと安全性との折り合いから、わざと選ばないでいる選択かとは思いますが。

 物理の結果を応用しにくい、物理にとってシビアな条件を、コストのために敢えて採用しているのだ、とも考えられるわけで、それを物理の未発達のせいにされても、やつ当たりなのではないかと思えるわけです。


  投稿者:EMAN - 2007/05/28(Mon) 21:06  No.1525 
> 経済学・経営学・金融工学と化学や物理を並列していいのでしょうか?

 ワイルさんへの質問なのに、横から何か言いたくなった私。
 ご容赦を。

 その昔、私が中学生の頃、
「経済学が役に立つなら、経済学者は大金持ちだ」
なんて狭いことを言う大人の言葉を真に受けて、
経済学は役に立たないものだと思い込んでしまいました。

 実は経済学というのは、経済という複雑で巨大なシステムの
「制御理論」だったのですね。
 いやー、理系か、プログラマー志望の人なんかが
取り組んだら結構楽しめそうな内容です。

 この知識を使うのは、国家とか、企業のそういう部署の人たち。
 部分的にはそれ以外の人も知っていた方がいいけれど。

 実験が出来ないですって?
 ソ連なんかの社会主義は壮大な実験だったという人もいます。

 高速道路なんかで「社会実験実施中」なんて
書いてあるのを見ると、ワクワクします。
 でもこれ、ちょっと意味が違うか。


 コンピュータの制御を学んだ人が、
世界のコンピュータを我が物のように
操れるわけではないのと同じように、
経済学者が自ら世界経済を操るわけではない。
 また、理論を知っていても、プログラムが意図した通りに
動くとは限らないし、ダウンしたコンピュータを
いつもセオリー通りに復帰させられるわけでもない。

 理論どおりに行かないことがあるからって役立たずなものか。

 ライブドアの堀江社長なんかは、システムの穴を狙った
クラッカーみたいなものかね。

  投稿者:ばけがくか - 2007/05/28(Mon) 22:05  No.1526 
EMANさんから返答が頂けて光栄です。
ソ連邦の実験ですが、あれはイデオロギーの実験という
ニュアンスが強かったのではないでしょうか?
プロテスタントに裏付けられる資本主義に対して、新しいイデオロギーとしての
社会主義、という実験ではないのでしょうか?
私は自然科学の実験とソ連邦の実験が全く異種のものであると考えます。
様々なパラメータのうち一つだけを変化させて様子を観察する、
このような実験が経済で可能なのでしょうか?可能なら私の理解が甘かったです。
すいません。
あと、前述の政府による決定とは右派政権から左派政権への
大きな変革(例えばワイマールの崩壊など)やテロ等を意味します。
政府という言葉が悪かったですね。政治です。

私が問いたかったのは以下の事です。
自然が論理を採用しているということをどのように証明するのでしょうか?
若しくはカントのように人間の認識構造が論理を採用しており、人間は
その認識構造を使う以外に自然を認識出来ない故に、自然現象は論理、
すなわち数学を用いて記述できると言うのでしょうか。

あと、これは私が勘違いしていたら申し訳ないですが、この際EMANさんに確認したいと思います。
私はかなり前からこのサイトを利用させてもらっています。それはこのサイトが上手く脱数式
出来ていると感じたからです。もし、この点がEMANさんの意図に反する事だとしても、私には
そう映りました。数式を用いなければ議論出来ない、ではなくてキチンと物理的イメージを
重要にしながら物理を記述する方法に感銘を受けました。EMANさんは物理を多くの人が分かるように
する、というのが根底にあるのでないか?と感じてよくこのサイトを見させて頂いてます。
しかし、ワイルさんの主張は「数学に素養が無ければ物理を語る資格なし」というように
私に映りました。もし、これがワイルさんの主張と大きく異なるならば、謝らなければなりません。
すいません。ただし、これも私に映った「ワイルさんの姿」です。議論をする際に豊富な知識で
畳み掛けて反論を塞いでいるようにも思います。これでは議論ではありません。
私は自然科学の前では全ての人は平等に「無知」であると思います。そもそも人間の認識が
正しいという証明は、「人間」にはできません。豊富な知識を得るためにワイルさんした努力は
私には計り知れないものですが、このような手法で議論を進めるのは自然科学の前提である
自由な議論が崩れているのではないでしょうか?

  投稿者:T_NAKA - 2007/05/28(Mon) 23:17  No.1527  <Home>
もう議論の大筋は終わっているようですが、少し気になったので書かせて頂ます。

>つまり、近代西洋の音楽では、半音と半音との間の微分音を捨てているわけです(近代西洋の音楽では、その代償として、いわゆる対位法や和声音楽を発展させ、フーガ、ソナタ、交響曲、オペラのような大きく豊かな音楽作品を作り出したわけです)。

というのは少し言いすぎのように思いました。
微分音を捨てると、何故対位法や和声音楽が発展するのかが分かりません。
アフリカ音楽などメロディは単純なのですが、リズムの大変複雑に出来ています。
ですから、音階の問題ではなく、美意識の問題だと思います。
また「半音と半音との間の微分音を捨てている」のではなく、不便なので、平均律を使っているということです。

それで、下のwikiを見て頂ければお分かりと思いますが、西洋でも平均律には抵抗があったようですし、東洋でも平均律は発見されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B

和声を数学的にやっていくと、純正調になって、「1オクターブを12の半音で分割する」ことが出来なくなってしまうのです。

ちなみに、世界で初めて純正調の鍵盤楽器を作ったのは、日本人物理学者「田中正平」博士とのことです。

  投稿者:ワイル - 2007/05/29(Tue) 11:35  No.1529 
こんにちは

>>しかし、ワイルさんの主張は「数学に素養が無ければ物理を語る資格なし」というように私に映りました。

そのような意図はないです。
私は、ここに来る他の方々ほど、数学力はないですし、あまり抽象的な議論は苦手です。
ただ、そのように映りましたら、謝罪します。

  投稿者:ワイル - 2007/05/29(Tue) 12:02  No.1530 
>>自然が論理を採用しているということをどのように証明するのでしょうか?
>>若しくはカントのように人間の認識構造が論理を採用しており、人間は
>>その認識構造を使う以外に自然を認識出来ない故に、自然現象は論理、
>>すなわち数学を用いて記述できると言うのでしょうか。

私は、割り切って、人間が捉えている自然や社会の姿は、virtual(仮想的)なものとも思っています。

最近のパソコンやゲーム機におけるグラフィックスやゲームでは、まるで実際にあるような景色が作られているものがあります。
そういったパソコンやゲーム機の画面の中の景色って、virtualなものです。
そして、そのような景色は、パソコンやゲーム機のスイッチを切れば、消えてしまう。

私たちが認識している自然や社会も、もしかしたら、そんなものかも知れません。

そして、数学化するということは、virtual化の一つであると、思います。

でも、その数学というか、論理構造によって、未知の存在を予言し当て(ニュートン力学による海王星、マクスウェル電磁気学における電磁波など)、人間が直接見えないものも明らかになってきてもいる(重力、電気、磁気とか、分子、原子、クォークなど)のは、事実でもあり、不思議なことです。

  投稿者:EMAN - 2007/05/29(Tue) 12:39  No.1532 
> 様々なパラメータのうち一つだけを変化させて様子を観察する、
> このような実験が経済で可能なのでしょうか?
> 可能なら私の理解が甘かったです。
> すいません。


 いや、「すみません」という必要はありません。
 経済学的な実験では、一つのパラメータのみを変えた対照実験は「ほぼ不可能に近い」のは事実ですから。

 ところが「物理実験」だって厳密なことを言えば一つのパラメータのみを変えた実験なんて出来ないので、経済学実験と物理学実験の明らかな境目はどこにあるのだろうか?と私自身が深く考えることになりました。


 例えば、振り子についての対照実験をしている時に、部屋の外でカラスが鳴いた。 さっきは鳴かなかった。 実験条件が違ってきますが、普通はこれを無視します。 実験に影響しないパラメータだと仮定しているからです。


 では経済実験はどうだろう。
 宗教は? 人口の規模は? 年齢の分布は? いろんなパラメータがあります。 でも、目的によっては無視してもよいパラメータもありますね。

 サラリーマンのそれぞれは、みんな個性があると主張しますが、悲しいかな、全体としてみれば、なぜか同じような行動をします。

 気体の運動が絡むような物理実験などでも同じで、初期条件をいつも同じにするなんて不可能です。 でも考えなくて良かったりします。

 すると、経済学実験と物理学実験の差はどこに?

 物理の主流はこれまでミクロを目指してましたから、他からの影響を切り分けてなるべく排除して、より厳密な対照実験が行われるようになってました。
 それによって、物理実験と他の実験に大きな差があるように見えていたわけですが、近頃はそう簡単に他とは切り離せなくて実験の難しい分野も増えてきているのではないかと思うのです。

 経済学実験だって、強大な権力と人権無視によって、原理的には対照実験できそうですしね。


 経済実験に制御の利かないパラメータが多いのは事実ですが、物理実験だって、同じ条件がどうしても満たせない事情があれば、他の実験から導いた補正を入れたりしますし、良く検討した上で同じ手法が使えるとも思います。

 差がないと結論付けていいものでしょうか。

  投稿者:EMAN - 2007/05/29(Tue) 12:47  No.1533 
> 自然が論理を採用しているということをどのように証明するのでしょうか?


 これは私も疑問に思い、不思議さに圧倒される思いがする部分です。 アインシュタインの名言にもこんなのがありますね。

「世界について最も理解できないことは、世界が理解できるということだ。」

 究極の疑問、深遠な疑問だと思います。 私も答えが欲しいと思っています。 これについての私のくだらないアイデアは、空想的に過ぎて、今のところ書くに値しないです。

 論理とは何か? 矛盾とは何か? なぜ世界は無矛盾なんでしょう。





> 若しくはカントのように人間の認識構造が論理を採用しており、

 我々人間は自然を認識します。
 しかし、その裏に論理が隠されていることを知る前から認識できているのではないでしょうか。
 法則は同じように昔から働いていたと考えられます。

 我々が論理で現象を解明した瞬間に、論理的でないものが認識できなくなってしまったのでしょうか。

 子供の時に見えていた色んなものが消えたのは、論理を身に付けたからか。 それは幻想だったのか、それとも本当は実在していたのか。 ゲーテの「魔王」なんかを思い出します。

  投稿者:ワイル - 2007/05/29(Tue) 13:28  No.1534 
>>我々が論理で現象を解明した瞬間に、論理的でないものが認識できなくなってしまったのでしょうか。

新しい物理/科学理論が作られ、新しい論理が出てくるたび、それまで知られていなかった新しい存在が明らかにされ、認識されたりしますよね?

現在では、広瀬立成、リサ・ランドールやミチオ・カクの著書にの話などで、そういう論理によって、私たちの五感(あるいは、それを補強する装置、機械)によって直接認識できない世界の存在の可能性も語られるようになってきています(影の宇宙とか、4次元を超える高次元宇宙の存在とか)。

こうしたことって、実に不思議ですよね?

そもそも、数学自体にも、神秘性とか不思議といったものがあると思いますし、それには、ヨーロッパや中国などの古い時代の話でもあります。
「魔方陣」、「黄金分割」などは、その一例でしょう。

でも、日本の多くの学校の数学の授業では、そうした数学の神秘性や不思議につながる話を、あまりしないのでしょうか?
(数学に限らないけど)

  投稿者:ばけがくか - 2007/05/29(Tue) 21:51  No.1538 
ワイルさん、EMANさんご丁寧な返信を有難う御座います。私は物理学を専攻している訳ではなく、
的外れな話をしてしまったかも知れません。これからもお二人を始めここのサイトに関わる人たちの
助けによって私も物理を勉強して行こうと思います!これからも宜しくお願いします。

  投稿者:ワイル - 2007/05/30(Wed) 00:06  No.1539 
>>ワイルさん、EMANさんご丁寧な返信を有難う御座います。私は物理学を専攻している訳ではなく、
>>的外れな話をしてしまったかも知れません。これからもお二人を始めここのサイトに関わる人たちの
>>助けによって私も物理を勉強して行こうと思います!これからも宜しくお願いします。

戦後日本の学校教育は、科目よらず、私は、おかしいとおもっています。

「相対論ではなく、戦後日本の教育が間違っている!!」

といいたいです(あっちこっちから、反論が来そうですが、あくまでも、私個人の思いです)。

そういう愚痴をいっていてもしょうがない。
勉強は、自分で、自己流にやるしかないかな?

> 自然が論理を採用しているということをどのように証明するのでしょうか?

(非科学的といわれるかも知れないが)神様のような存在がいて、自然や宇宙を、数学的論理あるいは、そういう秩序と合うように作られた、としか言いようがないと思います。

また、我々も、地球や宇宙より生まれて生きている存在であり、地球や宇宙の一部ですよね?

余談ですが、神様とか仏様というのも、そういう宇宙や自然の論理的秩序の、宗教の世界における表現なのかも知れませんね?(私は、宗教音痴といえるのですが)



  投稿者:ワイル - 2007/05/30(Wed) 00:19  No.1540 
こんばんは

>>それで、下のwikiを見て頂ければお分かりと思いますが、西洋でも平均律には抵抗があったようですし、東洋でも平均律は発見されています。

いろいろとあるとは思いますが、結果的に、バッハあたりからシェーンベルクあたりまでの西洋近代音楽は、平均律の束縛から抜けれなかった、といえるのでは?
例外はありますが、ジャズ、ロック、ポピュラーの世界では、いまも、平均律に基づいているようですし。

ただ、音楽や芸術の世界は、理論的な話より、私たち受け側にとって、面白いかどうか、が問題でしょう(次いで、クラシック、ジャズ、ロック、ポピュラー、東洋音楽などのジャンルも問いません)。

  投稿者:T_NAKA - 2007/05/31(Thu) 09:14  No.1549  <Home>
>理論的な話より、私たち受け側にとって、面白いかどうか、が問題でしょう

その通りですよ。
いろいろ議論の中でアナロジーとして音楽話が出てきたのも分からないではないですが、ここは音楽談義をする場でもないし、それこそ読んでいても面白くない方々が多いでしょうね。
ただ、アナロジーとしてもあまり根拠のある話とは思えないと言いたかったんです。

(ロックギターのソロを聞けばチョーキングを多用していて、平均律で演奏していないのは直ぐに分かるんですが。。。)

と、私自身があまりこの場にそぐわない「音楽談義」を広げても仕方ないし、迷惑になるので、この辺で止めておきます。

  投稿者:ワイル - 2007/05/31(Thu) 14:06  No.1552 
どうもです。

>>(ロックギターのソロを聞けばチョーキングを多用していて、平均律で演奏していないのは直ぐに分かるんですが。。。)

あ、そうでしたか。
私も、ロックは良く聞いていますが、そこまで注意深く聞いていないのは、恥ずかしいな!!

  投稿者:hirota - 2007/06/01(Fri) 19:33  No.1569 
>自然が論理を採用しているということをどのように証明するのでしょうか?

人間原理を使えば、
「因果律 (原因と結果の対応) のない世界では、生命の生存戦略は意味を成さない」⇒「高度な因果律のない世界では、生命が知能を持つ所まで進化できない」⇒「高度な因果律のない世界では、人間がいない」
というわけで、人間がいる世界では高度な因果律が存在します。
そして、論理とは様々な対象で成り立つ因果律の共通部分ですから、やはり存在します。